「ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)」の版間の差分

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[[ダブリン]]の[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティカレッジ]]を卒業後、外交官として勤務し始めた。1763年には[[七年戦争]]の講和会議に参加し、[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]交渉の記録を行っている。[[1764年]]には[[ロシア帝国|ロシア]]の[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]駐在公使を務める。以後、[[英領西インド諸島|英領カリブ諸島植民地]]総督、[[チェンナイ|マドラス]]総督([[イギリス領インド]])など植民地行政官を歴任した。
 
[[1769年]]には{{仮リンク|アイルランド書記長担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}となり、1772年の辞職とともに[[ナイト]]に叙された。[[1776年]]には[[グレナダ]]総督となり、マカートニー[[男爵]]([[アイルランド貴族]])に叙せられた。1768年には[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]議員(1776年まで)、{{仮リンク|グレートブリテン議会|en|Parliament of Great Britain}}議員となり、1781年まで務めた。[[1792年]]にはマカートニー[[伯爵]](アイルランド貴族)を受ける。
 
イギリスと中国の[[清朝]]との間で行われていた貿易は[[広州市|広州]]一港に限られていたため、[[1791年]]、マカートニーは前任のカスカートの病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が派遣する、[[乾隆帝]]の80歳を祝う使節団として派遣され、[[1792年]]9月に[[スピットヘッド]]からライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。
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[[坂野正高]]訳注で『中国訪問使節日記』([[平凡社東洋文庫]]、初版1975年)がある。
 
帰国後は、[[イタリア]]での任務や[[ケープ植民地]]総督を歴任する。1795年には[[グレートブリテン貴族]]としてマカートニー男爵に叙せられた。[[1798年]]11月に健康を害し退職した。1806年[[ミドルセックス]]の[[チズウィック]] (Chiswick) で69歳で亡くなった。
 
== その他 ==