「ドレンテ十字軍」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎top: リンク調整
修正
16行目:
| map_label =
| territory =
| result = 十字軍遠征の失敗<br/>*[[:en:Coevorden{{仮リンク|クーフォルデン]]|en|Coevorden}}における封土の[[ボロキュロのヘンリー3世]]に譲渡。 <br/>*女子修道院の設立
| status =
| combatants_header =
| combatant1 = {{plainlist|
*[[File:Coat of Arms of the Bishopric of Utrecht.svg|19px]] [[:en:Bishopric of Utrecht{{仮リンク|ユトレヒト司教領]]|en|Bishopric of Utrecht}}
*[[File:Frisian flag.svg|22px|border]] [[フリース人]]十字軍
}}
| combatant2 = {{plainlist|
*[[File:Van Coeverden wapen.svg|20px]]クーフォルデン城伯(ドレンテの在地貴族)
}}
| combatant3 =
| commander1 =[[:en:Wilbrand of Oldenburg司教{{仮リンク|ウィルブランド (アーデンボルグの司教)]]|label=ウィルブランド|en|Wilbrand of Oldenburg}}
| commander2 = {{plainlist|
*クーフォルデン領主フレデリック
45行目:
| campaignbox =
}}
{{Campaignbox 十字軍|state=collapsed}}
 
'''ドレンテ十字軍'''(ドレンテじゅうじぐん、[[英語]]:Drenther Crusade, [[オランダ語]]: Fries-Drentse Oorlog{{efn|フリース対ドレンテ戦争。}})とは、[[1228年]]から[[1232年]]まで約4年間続いた[[十字軍]]遠征。遠征の対象は[[ドレンテ]]は[[ネーデルラント]]北東部住む在位置するの貴族らで、そこに住む[[:en:Wilbrand of Oldenburg|ウィルブランド (ア領主]]らが十字軍遠征の攻撃対象になった。十字軍を率いたのはネーデンボラント北部司教)]]や[[ユトレヒト]]教会の[[司教]]らの騎士がにして[[]]の許可を得て行った戦争君主{{仮リンク|ウィルブランド (司教)|label=ウィルブランド|en|Wilbrand of Oldenburg}}である。この十字軍の軍勢の大半は[[フリース人]]で構成されていた。同時代の資料の一つによれば、この十字軍は時の教皇[[グレゴリウス9世]]の許可を得ていたという{{sfnp|Rist|2011a|p=138}}
 
== 概要 ==
この十字軍は長期に渡った紛争(ドレンテ領主vs対{{仮リンク|ユトレヒト司教領)|en|Bishopric of Utrecht}}紛争の一であり、行われた日程期間については諸説あるがおおよそ1228-年から1232年とされている{{efn|While the crusade itself is dated to 1228–1232,{{sfnp|Maier|2006}} sources vary in the start and end dates they give to the wider conflict. Winter places the "uprising" in 1227–1231,{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}} while van{{nbsp}}Bavel puts the "revolt" in 1225–1240.{{sfnp|van Bavel|2010|p=252}}}} 。紛争の原因はドレンテにおけるの宗教的慣とユトレヒト司教が有する特とが対立したことで起きた{{sfnp|Maier|2006}}。この地域的な紛争が十字軍へと発展した大きな要因は1227年、[[に{{仮リンク|アンの戦い]]にて[[:|en:Otto II|Battle of Lippe|Ane}}で当時のユトレヒト司教{{仮リンク|リッペのオットー2世]]|en|Otto II of Lippe}}が殺害されたことである{{sfnp|Maier|2006}} 。これを受けてウィルブランドは[[教皇]]からドレンテに対する十字軍遠征の許可を得て、ついにドレンテは司教に抗った罪で異端認定をも受けてしまう{{sfnp|Maier|2006}}。それに加えて司教ウィルブランドは[[フリース人]]らに対して、1228年の夏ごろから1230(年あるいは1231)年ごろの冬にかけて、キリスト教の説教についよっ説き回ることで十字軍に加入させることに成功した{{sfnp|Maier|2006}}。遠征下にいて幾度かの戦闘が交わされたが、1232年9月、当初の目的を果たすことができないまま十字軍遠征は終結した{{sfnp|Maier|2006}}。しかし両者間の地域的な紛争は1234年まで散発的に続いたとされる{{sfnp|Boffa|2010}}。
 
この戦争に関する主な資料は次の2つである。
この戦争に関する主な記述は2つあり、その両者ともに1232-1233年にかけて同年代の人物によって書かれている。2つとも司教サイドからの視点で記されている。( the ''[[:en:Gesta episcoporum Traiectensium|Deeds of the Bishops of Utrecht]]'' ・ ''[[:en:Quaedam narracio|A Certain Narrative of Groningen, Drenthe and Coevorden]]'')
* ''Gesta episcoporum Traiectensium'' (Deeds of the Bishops of Utrecht)
* ''{{仮リンク|Quaedam narracio|en|Quaedam narracio}}'' (A Certain Narrative of Groningen, Drenthe and Coevorden)
両者ともに1232年から1233年にかけて同時代の人物によって書かれている。2つとも司教側の視点で記されている。
 
==背景==
[[File:Political map of the Low Countries (1350)-NL.svg|thumb|1350年頃のネーデルラントの勢力図 {{legend|mediumorchid|[[:en:Bishopric of Utrecht{{仮リンク|ユトレヒト司教領]]|en|Bishopric of Utrecht}}はこの頃ドレンテ地方も有していた。 }}]]
[[:en:County of Drenthe{{仮リンク|ドレンテ公国]]|en|County of Drenthe}}は[[神聖ローマ帝国]]の領邦(=[[レーエン]])1つであり、ユトレヒト司教領の世俗的支配圏下に置かれていた{{sfnp|Köbler|2007|p=148}}。その上、ドレンテ地方は[[デーフェンテル]]・[[オルデンザール]]地方におけるキリスト教の[[教]]にも属していたためユトレヒト司教の宗教的・精神的支配圏下にも置かれていた{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}。この頃から起こっていたドレンテ地方の人々と司教サイドの人々との摩擦はユトレヒト司教側を脅かしつつあった。[[:en:Bernard Slicher van Bath|オランダの歴史家{{仮リンク|ベルナード]]|en|Bernard Slicher van Bath}}は、当時ほぼ自由人となりつつあり自分たちの田畑や農民らによる組織を有していた農民らが、司教らにより再び[[農奴制|農奴]]のように扱われてしまうのではないかと恐れていたであろうと主張している。また他の歴史家''F. H. J. Dieperink''によると、ドレンテの農民らはすでに、領主教会に支払わなければならない[[十分の一税]]の献納と司教による地域運営の権威を拒否していたとされる{{sfnp|van Bavel|2010|p=252}}。
 
また、この反乱は上記のような農民だけで行われたのではなく、地元の貴族らも参加していた。ドレンテの人々は女性たちも含めて皆総出でこの十字軍に立ち向かった。{{sfnp|van Bavel|2010|p=256}}
 
===ドレンテ-フローニンゲン戦争===
[[File:Slag bij Ane 1227.jpg|thumb|アンの戦い(1227), これがドレンテ十字軍の引き金になった。]]
11251225末〜1226年頭頃、11月に<ref>「エンゲルベルトゥス 〔ケルンの〕」『[[:en:Engelbert新カトリック大事典]]』研究社Online IIDictionary, of Berg|2020年5月24日閲覧。</ref>当時の[[ケルン大教]]である{{仮リンク|エンゲルベルトゥス|en|Engelbert II of Berg}} が暗殺されて間もなく、[[:en:Rudolph van Coevorden1225年末あるいは1226年初頭に{{仮リンク|クーフォルデンのラドルフ]]|en|Rudolph van Coevorden}}率いるドレンテ人たちは[[フローニンゲン州|フローニンゲン]]に侵攻し、この地の[[城伯]]であるエグベルトらに対し先手を打って進軍した。エグベルトはユトレヒト司教{{仮リンク|リッペのオットー2世|en|Otto II of Lippe}}と同盟を結んでおり、また[[フローニンゲン|フローニンゲン市]]で最も金銭経済的影響力があったゲルキンゲン家もエグベルトに協力した。しかしこの戦争の大義名分をラドルフらは有しておらず、ラドルフはゲルキンゲン家の肩を持つことでいわば''フローニンゲン市における内戦''状態を名分にして正統に戦争を引き起こそうとした。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
ユトレヒト司教オットー2世は両者に対して戦闘を止めるよう促し、フローニンゲンまで出向いて平和的解決をするよう手配を整えようとしたものの、結局破棄される。司教オットーは再三休戦に向けた要求を伝え、自身の教区・領地であるユトレヒトに戻って軍を招集した。司教オットーがフローニンゲンに不在の間、エグベルトはフローニンゲン市の南東に位置する[[:en:Glimmen{{仮リンク|グリメン]]|en|Glimmen}}村に防衛拠点を敷いた。ラドルフはこの行動をフローニンゲン側の挑発と認識したが、エグベルトはなんとしてでも自身のフローニンゲンにおける統治権を守ろうとグリメン村を要塞化したのだった。
 
ドレンテ軍は要塞化されたグリメンに攻撃を仕掛け要塞を破壊し多くの捕虜を取ったため、エグベルトは[[フリジア]]まで撤退せざるを得なかった。エグベルトはフリジアにて[[フリース]]人部隊を招集しドレンテ人に攻略されたフローニンゲンまで進軍した。その後激しい戦闘の末、エグベルトはフローニンゲンを奪還し、ドレンテ人らを撤退に追い込んだ。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
司教オットー2世[[:en:Ommen|オメン]]([[クーバーデン]]の南西に位置する街){{仮リンク|オメン|en|Ommen}}にて軍を招集した。司教オットーはかつて[[第5回十字軍]]に参加したことがあるため、なんとかして多くの手練れな騎士たちを自身の旗に呼び集めることが出来た。その騎士の中には自身の弟[[:{{仮リンク|リッペのハーマン2世|en:|Herman II, Lord of Lippe}}が派遣した騎士や、ケルン大司教{{仮リンク|ヘンッペのハ1世 (ケル2大司教)|label=ヘンリー1]]|en|Heinrich I von Müllenark}}が派遣した騎士などがいた。攻城のための道具食料などを{{仮リンク|フェヒト川|en|Vechte}}を通じて運搬するとともに司教オットーの軍勢はクーバーデンに向けて進軍した。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
[[:en:Heinrich I von Müllenark|ケルン大主教(ヘンリー1世)]]が派遣した騎士などがいた。攻城のための道具や食料などを[[:en:Vechte|フェヒト川]]を通じて運搬するとともにオットーの軍勢はクーバーデンに向けて進軍した。
{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
1227年6月27日、クーバーデンから6マイルの距離にある湿地帯にて司教オットー2世率いる司教軍とラドルフ率いる反乱軍が出会い、戦闘が始まった。([[:en:Battle of Ane({{仮リンク|アンの戦い]])|en|Battle of Ane}})。司教オットーは旗の騎士たちと共に討ち死にした。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}破れ去った司教軍は[[ユトレヒト]]まで撤退した。このことを記した歴史書 ''Deeds of the Bishops''には、アンの地での戦いが新たな緊張とより緊迫した戦争を起こしてしまったとある。<!-- (''bellum hinc inde incipitur'').-->{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
===十字軍の準備===
ウィルブランドは、アンの戦いにて手傷を負った[[ゲルデルン公国|ゲルデルン公]]やアムステルの領主たちの説得に応じて、戦死したユトレヒト司教オットー2世の跡を継承した。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}} ウィルブランドはオランダ公やゲルデルン公と血縁である上、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]にかつて教皇への使者として仕えていたこともあったからだ。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}その上、ウィルブランドはオットーと同様に、十字軍に従軍していた経験があった。([[第4回十字軍]]){{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}}{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
ウィルブランドはユトレヒト司教に任命される頃、教皇の宮廷に滞在しており、この機会に教皇からドレンテに対する十字軍遠征の許可を得た可能性がある。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}} しかし、ドレンテ十字軍に対する[[教皇勅書]]の記録は残っていない。しかし歴史書''Deeds of the Bishops''によるとウィルブランドは教皇より十字軍による[[贖宥状]]を授かったとの記述がある。{{sfnp|Maier|2006}}{{sfnp|Rist|2011a|p=138}} ウィルブランドはフリース人らに対してキリスト教の教えをもってして十字軍に参加するよう説得しそのまま十字軍の軍勢に組み込んだ。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}} ドレンテ人らに対する遠征は、ドレンテ人が司教に逆らい殺害までしたことにより異端認定を受けたことから、避けられない模様となった。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}
ウィルブランドは、アンの戦いにて手傷を負った[[ゲルデルン公国|ゲルデルン公]]やアムステルの領主たちの説得に応じて、戦死したユトレヒト司教、オットー2世の跡を継承した。{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}} ウィルブランドはオランダ公やゲルデルン公と血縁である上、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]にかつて教皇への使者として仕えていたこともあったからだ。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}その上、ウィルブランドはオットーと同様に、十字軍に従軍していた経験があった。([[第4回十字軍]]){{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}}{{sfnp|Winter|2005|pp=102–107}}
 
先ほどあげた歴史書 ''Deeds of the Bishops of Utrecht''によると、ウィルブランド率いる十字軍は時の教皇[[グレゴリウス9世]]により許可されていた、と記述があるものの、教皇が関与していたとする証拠はその他にない上に、この十字軍遠征は司教自身が単独で行おうと思えば可能であった{{sfnp|Rist|2011a|p=138}}
ウィルブランドはユトレヒト司教に任命される頃、教皇のの宮廷に滞在しており、この機会に教皇からドレンテに対する十字軍遠征の許可を得た可能性がある。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}} しかし、ドレンテ十字軍に対する[[教皇勅書]]の記録は残っていない。しかし歴史書''Deeds of the Bishops''によるとウィルブランドは教皇より十字軍による[[贖宥状]]を授かったとの記述がある。{{sfnp|Maier|2006}}{{sfnp|Rist|2011a|p=138}} ウィルブランドはフリース人らに対してキリスト教の教えをもってして十字軍に参加するよう説得しそのまま十字軍の軍勢に組み込んだ。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}} ドレンテ人らに対する遠征は、ドレンテ人が司教に逆らい殺害までしたことにより異端認定を受けたことから、避けられない模様となった。{{sfnp|Maier|1994|pp=167–169}}
 
「ドイツ王」[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ(7世)]]は、アンの戦いの後、ドレンテ人の非側を無な行為に対して征伐者であると言明したものの、ユトレヒト司教に対してはなんの援助もなかった{{sfnp|Loud|2017|p=21}}
先ほどのあげた歴史書 ''Deeds of the Bishops of Utrecht''によると、ウィルブランド率いる十字軍は時の教皇[[グレゴリウス9世]]により許可されていた、と記述があるものの、教皇が関与していたとする証拠はその他にない上に、この十字軍遠征は司教自身が単独で行おうと思えば可能であった。{{sfnp|Rist|2011a|p=138}}
 
[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)]]は、アンの戦いの後、ドレンテ人の非法な行為に対して征伐したものの、ユトレヒト司教に対してはなんの援助もなかった。{{sfnp|Loud|2017|p=21}}
 
==十字軍遠征==
司教ウィルブランドはラドルフや彼の兄弟たちが率いる反乱軍をクーバーデンまで押し戻すことができ、1229年、ウィルブランドは統治権をそのまま保持することができた。つまり、反乱軍は目的をまだ果たせていなかった。そのためラドルフは再び戦争を始めようとした。しかしウィルブランドの軍勢はドレンテ勢より優勢となり、ラドルフは休戦を認めた。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}ラドルフらが交渉のために[[:en:Hardenberg{{仮リンク|ハルデンベルグ]]|en|Hardenberg}}に赴いたものの、街に着くとラドルフ司教ウィルブランドらに囚われ、1230年6月25日、そのまま処刑されてしまう。ラドルフの処刑で反乱軍は休戦規約を破棄し、戦争を再開した。しかしこれまでのような力は残っていなかった。{{sfnp|Boffa|2010}}
 
ラドルフの兄弟は処刑された首長ラドルフの跡を継いで反乱を継続させたため、ウィルブランドはフリース人やフローニンゲン市の市民らに対してドレンテ人の反乱制圧に協力するよう呼びかけた。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}フリース人らに加えて、[[:{{仮リンク|Twente|en:|Twente]]}}市や[[サラント]]市に居住する貴族たちまでもがウィルブランドに協力した。{{sfnp|van Bavel|2010|p=253}}無名の歴史家が当時記した''A Certain Narrative''という歴史書には、フリース人らは自ら進んでウィルブランドの援助をしたと強調されている。とても多くの市民や騎士らが傘下に入ったことで、ウィルブランドは自身の軍を2つに分けなければならないほどだった。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}
ウィルブランドはラドルフや彼の兄弟たちが率いる反乱軍をクーバーデンまで押し戻すことができ、1229年、ウィルブランドは統治権をそのまま保持することができた。つまり、反乱軍は目的をまだ果たせていなかった。そのためラドルフは再び戦争を始めようとした。しかしウィルブランドの軍勢はドレンテ勢より優勢となり、ラドルフは休戦を認めた。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}ラドルフらが交渉のために[[:en:Hardenberg|ハルデンベルグ]]に赴いたものの、街に着くと彼は司教らに囚われ、1230年6月25日、そのまま処刑されてしまう。彼の処刑で反乱軍は休戦規約を破棄し、戦争を再開した。しかしこれまでのような力は残っていなかった。{{sfnp|Boffa|2010}}
 
しかしクーバーデンの郊外に住む人々はドレンテ人らに味方した。1230年、司教の軍勢はクーバーデン郊外にて反乱軍に敗れたものの、ドレンテの砦を破壊することができた。そして1231年、両者は和解した。その内容は、ドレンテ側が賠償金を払い、ラドルフの弟フレデリックがクーバーデンの統治権を保持する、というものだった。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}
ラドルフの兄弟は反乱軍首長の跡を継いで反乱を継続させたため、ウィルブランドはフリース人やフローニンゲン市の市民らに対してドレンテ人らの反乱制圧に協力するよう呼びかけた。
{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}フリース人やらに加えて、[[:en:Twente]]市や[[サラント]]市に居住する貴族たちまでもがウィルブランドに協力した。{{sfnp|van Bavel|2010|p=253}}無名の歴史家が当時記した''A Certain Narrative''という歴史書には、フリース人らは自ら進んでウィルブランドの援助をしたと強調されている。とても多くの市民や騎士らが傘下に入ったことで、ウィルブランドは自身の軍を2つに分けなければならないほどだった。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}
 
しかしクーバーデン郊外に住む人々平和も長く続かなかった。両者の和平が成立したその年、ドレンテ人らに味方しとその協力者。1230年ちが、司教の軍勢は側に奪われていたクーバーデン郊外の砦て反乱軍に敗れ再び攻めかかっだ。この戦闘で多くドレンテ人たちが命を落としたが、フローニンゲン軍はその砦を破壊死守し、{{仮リンク|Zuidlaren|en|Zuidlaren}}をも制圧することができに成功した。そして1231年、両者の一方でフローニンゲンの配下にいたフリース人部隊和解この戦で壊滅した。その内容は、ドレンテ側が賠償金、フレていたボルキュロのヘデリック(ラドルは[[ヴェストの弟)がクバーデの統治権]]にて新兵保持する、とうも、別だっフリース人部隊も撃退した。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}
 
両者は幾度となく戦ったものの、1232年9月、十字軍遠征は中途半端な結果に終わった{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}}
しかしこの平和も長くは続かなかった。両者の和平が成立したその年、ドレンテとその協力者たちが、司教側に奪われていたクーバーデン郊外の砦に再び攻めかかったのだ。この戦闘で多くのドレンテ人たちが命を落としたが、フローニンゲン軍はその砦を死守し、[[:en:Zuidlaren]]をも制圧することに成功した。その一方でフローニンゲンの配下にいたフリース人部隊はこの戦で壊滅した。ドレンテ人を率いていたボルキュロのヘデリックは[[:en:Westphalia]]にて新兵を雇いさらなるフリース人らの攻撃を見事に返り討ちにした。
{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}
 
両者は幾度となく戦ったものの、1232年9月、十字軍遠征は中途半端な結果に終わった。{{sfnp|Rist|2011a|pp=129–30}}
 
==その後==
ウィルブランドは1233年死去し、ユトレヒト司教座は[[:en:{{仮リンク|オットー3世 (Otto III van Holland)|オットー3世]]en|Otto III van Holland}}が継承した。オットー3世は就任後すぐに多くの軍を集めた。この軍事力のおかげでドレンテとユトレヒト司教との間に新たに和平条約が結ばれ、ヘンデリックはクーバーデンにおける自領を安堵された。その後、ドレンテ人たちはアンの戦いで殺害した先々代のユトレヒト司教オットー2世とその配下の騎士たちを弔うためドレンテに[[シトー会|]]の修道院]]立した。両者間の小競り合いは1240年には完に終結し、ドレンでの司教の宗教的権威は維持された。しかしユトレヒト司教が有する[[荘園|世俗的権威]]は失墜し、司教はドレンテ民を赦免した。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}{{sfnp|van Bavel|2010|p=253}}
 
==脚注==
ウィルブランドは1233年死去し、ユトレヒト司教座は[[:en:Otto III van Holland|オットー3世]]が継承した。オットー3世は就任後すぐに多くの軍を集めた。この軍事力のおかげでドレンテとユトレヒト司教との間に新たに和平条約が結ばれ、ヘンデリックはクーバーデンにおける自領を安堵された。その後、ドレンテ人たちはアンの戦いで殺害したオットー2世とその配下の騎士たちを弔うためドレンテに[[シトー会|修道院]]を建立した。両者間の小競り合いは1240年には完璧に終結し、ドレンデでの司教の権威は維持された。しかしユトレヒト司教が有する[[荘園|世俗的権威]]は失墜し、司教はドレンテ民を赦免した。{{sfnp|Magnin|1851|pp=41–45}}{{sfnp|van Bavel|2010|p=253}}
===注釈===
 
==メモ==
{{notelist}}
===出典===
{{reflist|30em3}}
 
==脚注参考文献==
{{reflist|30em}}
 
==出典==
{{refbegin|30em}}
*{{cite encyclopedia |ref=harv |first=Sergio |last=Boffa |title=Ane, Battle of |editor=Clifford J. Rogers |encyclopedia=The Oxford Encyclopedia of Medieval Warfare and Military Technology |volume=3 vols. |publisher=Oxford University Press |year=2010 |at=vol. 1, pp. 46–47}}
*{{cite journal |ref=harv |first=F. H. J. |last=Dieperink |title=De Drentse opstand tegen het bisschoppelijke gezag in 1227 |journal=Bijdragen van het Instituut voor Middeleeuwse Geschiednis der Rijks-Universiteit te Utrecht |volume=26 |year=1953 |pages=1–36}}
123 ⟶ 118行目:
*{{cite book |ref=harv |first=Bas J. P. |last=van Bavel |pages=249–268 |chapter=Rural Revolts and Structural Change in the Low Countries, Thirteenth – Early Fourteenth Centuries |publisher=Brepols |year=2010 |title=Survival and Discord in Medieval Society: Essays in Honour of Christopher Dyer |editor1=Richard Goddard |editor2=John Langdon |editor3=Miriam Müller |chapter-url=https://www.researchgate.net/profile/Bas_Van_Bavel2/publication/47903456_Rural_Revolts_and_Structural_Change_in_the_Low_Countries_Thirteenth_-_Early_Fourteenth_Centuries/links/555991bb08ae980ca6106d8b.pdf}}
*{{cite journal |ref=harv |first=David Ross |last=Winter |year=2005 |title=The Life and Career of Master Wiger of Utrecht (fl. 1209–1237): An Early Convert to the Order of Friars Minor |journal=Journal of Medieval History |volume=31 |issue=1 |pages=71–126 |doi=10.1016/j.jmedhist.2004.12.003}}
{{refend}}
 
{{デフォルトソート:とれんてしゆうしくん}}