「東京都道311号環状八号線」の版間の差分

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[[ファイル:Kanpachi seta2chome.jpg|thumb|right|200px|東京都世田谷区瀬田二丁目([[東急バス瀬田営業所|東急トランセ瀬田営業所]])付近 内回り<br/>外回りは瀬田交差点を前に渋滞することが多い。]]
[[ファイル:Tokyo metro road 311-2006-01-28.jpg|thumb|right|200px|東京都杉並区[[高井戸駅]]より外回り]]
 
'''東京都道311号環状八号線'''(とうきょうとどう311ごう かんじょうはちごうせん)は、[[東京都]][[大田区]][[羽田空港 (大田区)|羽田空港]]から、[[世田谷区]]、[[杉並区]]、[[練馬区]]、[[板橋区]]を経由して東京都[[北区_(東京都)|北区]][[赤羽]]に至る[[放射線・環状線|環状]](実際には計画当初から半円状:後述)の[[都道府県道|都道]]([[主要地方道]])である
 
路線名は、本路線の[[都市計画道路]]事業名である「'''東京都市計画道路幹線街路環状第8号線'''」に由来する。この道路は一般に「'''環状八号線'''」「'''環八通り'''(かんぱちどおり)」「'''環八'''」と呼ばれる。
 
「'''環八通り'''(かんぱちどおり)」「'''環八'''」の通称で呼ばれる。
 
== 概要 ==
起点付近に[[東京国際空港|羽田空港]]があり、[[第三京浜道路|第三京浜]]、[[東名高速道路]]、[[中央自動車道]]の起点インターと接続し、[[笹目通り]]および[[目白通り]]経由で[[関越自動車道]]とも接続している。また、[[国道20号]]([[甲州街道]])、[[国道246号]](玉川通り)といった主要一般道路とも交差しており、まさに東京の大[[動脈]]になってる重要な道路となっている。[[東京外環自動車道]][[大泉インターチェンジ|大泉IC]]以南が開通していない時点では、[[神奈川県|神奈川]]〜[[埼玉県|埼玉]]間を移動する[[自動車]]にとっては、都心部寄りの最短通過ルートにもなっている。
 
早朝から深夜まで終日交通量が非常に多い。く、一般に東京23区の道路は日曜祝日の交通量は少ないが、環八は日曜祝日・深夜[[渋滞]]が発生るのが特異的である。国道20号と交差する[[高井戸]]周辺や、国道246号と交差する[[瀬田交差点|瀬田]]周辺は、交通容量不足から慢性的な[[渋滞]]箇所となっており、その渋滞長は東京都内でも屈指であ
 
なお、[[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]]からは中央自動車道に入れないため、環状八号線から中央自動車道へ向かうに入る為には、上高井戸一丁目交差点で甲州街道に入り、[[調布インターチェンジ|調布IC]]まで行く必要がある。
 
=== 路線データ ===
 
== 歴史 ==
元々の初期構想は、旧[[東京市]]が[[1927年]]([[昭和]]2年)に発表した「大東京道路網計画」に含まれていたものである。当初から現在の[[特別区|東京23区]]の西側半周のみを結ぶ計画であった。しかし、実際には本格着工らしい着工はされぬまま、ところどころルート上の既存の道路を「環状道路」に指定した程度で、戦時体制に入った為計画はほとんど一旦凍結された。
 
[[戦後]]に入り、改めて都市計画決定されたは、[[1946年]](昭和21年)[[3月]]「戦災地復興計画方針」においてである。しかし都市計画決定されたがその後も[[瀬田交差点]]([[世田谷区]])を挟むわずかな区間の既存の道路が拡幅された程度で、実際に本格的に着工されたのそれから10年後の[[1956年]](昭和31年)だが着工後も実際の施工は遅々として進まなかった。同時期に構想・計画された[[東京都道318号環状七号線|環通り号線(環七)]]や[[産業道路]]が[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]関連工事とされて速やかに着工されたのに比べると、当時の沿線は未だ[[高速道路]]はおろか[[多摩川]]を渡る[[橋]]さえも少なく、交通需要が小さかったため後回しとされなっのである
 
[[1965年]](昭和40年)に[[第三京浜道路]]が開通し、瀬田交差点から[[玉川インターチェンジ (東京都)|玉川IC]]まで(いずれも世田谷区)が重複区間とされた頃から、沿線が急速に[[住宅地]]化されて[[自家用自動車|自家用車]]が普及し、交通需要が急増した。更に、以降次々に開通する[[東名高速道路]]([[1968年]](昭和43年))、[[中央自動車道]]([[1976年]](昭和51年))、[[関越自動車道|東京川越道路]]([[1971年]](昭和46年)、後の[[関越自動車道]])の各起点を、[[渋滞]]が激しく線形も悪い[[首都高速道路]]に代わって短絡するルートとなり、[[大型自動車|大型車]]をはじめとする通過需要も加わったため、整備が急がれることになった。しかしもはや過密化した土地利用と急上昇した[[地価]]に対して用地取得は一向に進まず、一部を建設費や工期のかさむ地下ルートとせざるを得なくなるなど、全線開通は遅れに遅れることとなった。
[[戦後]]に入り、改めて都市計画決定されたのは、[[1946年]](昭和21年)[[3月]]の「戦災地復興計画方針」においてである。しかし、その後も[[瀬田交差点]]([[世田谷区]])を挟むわずかな区間の既存の道路が拡幅された程度で、実際に本格的に着工されたのはそれから10年後の[[1956年]](昭和31年)、着工後も実際の施工は遅々として進まなかった。同時期に構想・計画された[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]や[[産業道路]]が[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]関連工事とされて速やかに着工されたのに比べると、当時の沿線は未だ[[高速道路]]はおろか[[多摩川]]を渡る[[橋]]さえも少なく、交通需要が小さかったため後回しとされたのである。
 
最後まで残ったのは[[練馬区]]の[[井荻トンネル]]から[[目白通り]]間と、練馬区の[[川越街道]]から[[板橋区]]の環八高速下交差点([[首都高速5号池袋線]]との交差場所)までの区間で、[[2006年]][[5月28日]]に供用が開始された。全線開通は戦後の正式な計画決定からも60年かかったことになる。
[[1965年]](昭和40年)に[[第三京浜道路]]が開通し、瀬田交差点から[[玉川インターチェンジ (東京都)|玉川IC]]まで(いずれも世田谷区)が重複区間とされた頃から、沿線が急速に[[住宅地]]化されて[[自家用自動車|自家用車]]が普及し、交通需要が急増した。更に、以降次々に開通する[[東名高速道路]]([[1968年]](昭和43年))、[[中央自動車道]]([[1976年]](昭和51年))、[[関越自動車道|東京川越道路]]([[1971年]](昭和46年)、後の[[関越自動車道]])の各起点を、[[渋滞]]が激しく線形も悪い[[首都高速道路]]に代わって短絡するルートとなり、[[大型自動車|大型車]]をはじめとする通過需要も加わったため、整備が急がれることになった。しかし、もはや過密化した土地利用と急上昇した[[地価]]に対して用地取得は一向に進まず、一部を建設費や工期のかさむ地下ルートとせざるを得なくなるなど、全線開通は遅れに遅れることとなった。
 
最後まで残ったのは[[練馬区]]の[[井荻トンネル]]から[[目白通り]]までと、練馬区の[[川越街道]]から[[板橋区]]の環八高速下交差点([[首都高速5号池袋線]]との交差場所)までの区間である。[[2006年]]([[平成]]18年)[[5月28日]]にようやく供用が開始された。全線開通は最初の構想から実に80年近く、戦後の正式な計画決定からも60年かかったことになる。なお、全線開通記念式典で[[東京都知事]]の[[石原慎太郎]](当時)は『(本格着工から)50年かかった』と発言している。この間の総工費はおよそ5千億円であったと言われる<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/2011081/?rd 環八通り 28日に全線開通へ] [[ライブドア]]ニュース</ref>。
この区間が開通するまでは、笹目通りや高島通りが環八通りの役割を果たしており、一部の道路地図上では笹目通りのうち、東京・埼玉の都県境から南側が環八通りという表記をされていた。