「邦寿王」の版間の差分

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== 逸話 ==
京都大学在学時、大工の娘で[[祇園]]の[[舞妓]]・南洋子と深い仲となり結婚を決意するが、両親の大反対と洋子が[[結核]]に冒されたことで諦める(大学卒業後洋子も上京して、[[大森 (大田区)|大森]]にアパートを借りて住んでいた。一旦京都に帰ったが、上京させ昭和医大に入院させていたり、駒込に、小さな家を建てて、ばあやをつけて療養させた。邦寿は両親と[[下落合]]に住んでいたが、毎日見舞いは欠さななかった、洋子には毎月10万円をかけていた(当時の大卒銀行員の初任給3000円)。洋子の存命中、男の性というもので、邦寿には別の恋人ができた<ref name="河原敏明131">河原敏明『天皇家の50年』p.131</ref>。それは深川富岡町の料亭の一人娘の長島マリ子であった<ref name="河原敏明131" />。マリ子は当初、[[久邇朝融]]とも併行してつきあっていた<ref name="河原敏明131" />
 
南洋子は、9人兄弟がいたため、10歳の時、祇園の妓方(置屋)に預けられる、13歳から芸妓(舞妓になる前の半玉)になる。大きな目は利発そうで、[[まぶた#哺乳類のまぶた|一重瞼]]でチャーミングではあったが、美人というほどではなかった。大学最上級の頃、[[鷹司和子|孝宮和子内親王]](昭和天皇の第3皇女)との、この上ない良縁の縁談が持ちかけられたが、断っている。旧[[佐倉藩]]藩主、堀田伯爵の娘・英子(学習院一の美人と言われていた。後に政商と言われた[[小佐野賢治]]と結婚)との縁談も断っている。長嶋マリ子は、深川富岡町の料亭「一楽」の一人娘(マリ子は、その後に、[[東映ニューフェイス]]でデビューする)。長嶋マリ子は、邦寿、[[久邇朝融]]と並行して付き合っていたが、久邇朝融が身を引いた。
 
両親は、長男としての自覚と借財の尻ぬぐいまでさた事を盾に取り、無理やり見合いをさせられて、結婚にまでこごつけた。昭和26年(1951年)5月、心配した両親から津雲龍子と強引に結婚させられたが、邦寿は結婚に際し「洋子の病気が治ればすぐに離婚しよう。龍子には気の毒だが指一本触れまい」との決意で臨んでいた。龍子は新婚旅行にも連れて行かれず、入籍も先延ばしにされた<ref>河原敏明『天皇家の50年』p.133</ref>。龍子の思いは、2日、3日、4日と日は過ぎても、夫の邦寿が指一本触れない事が気がかりだったが、龍子も夜の生活はどのようになるか知識としては知っている。皇族育ちゆえ、その方面は知らないのかと思ったが、どうも態度がよそよそしい、新婚旅行をしないのは、皇室では、そのような例はないからと言われて納得していたが、とうもおかしい。新婚の夢が無残に破れウツウツとする龍子だった。
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皇籍離脱後、「石ばしる垂水<small>(たるみ)</small>の上のさ蕨<small>(わらび)</small>の萌え出づる春になりにけるかも」([[志貴皇子]] 巻8 1418)を揮毫し、この歌の石碑が春日宮天皇陵(志貴皇子の陵墓)前に設置されている。
 
高度経済成長期には、皇族としての名を商売道具として使っていた。産経新聞夕刊、1976年12月20日、賀陽邦寿が会長を務める「日本経済功労顕彰委員会」が、2万8千円~6万8千円を支払った中小企業経営者に「功五位等位」~「功一位等位」まで、与えていた。お金で民間勲位を与える行為を、厳格にいえば詐欺事件ではないが、総理府賞勲局が、問題視。また、この後、賀陽邦寿が会長を務める「時事新聞社社会事業団」という団体が、全国の中小企業社長、商店主に、菊の紋章入り「経営褒華賞受賞資格推薦書」というものを、一律5万円で送っていた。旧宮家の人物が、トップにいる団体が、賞を送り、その代わりに金銭が必要になるという商売を行なっていた。
 
== 脚注 ==