削除された内容 追加された内容
BJJなど
国際柔道連盟に一部移動など
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嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。
講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる<ref>杉山重利 編著『武道論十五講』、[[不昧堂出版]]、2002年、75頁。{{ISBN2|4829304081}}。</ref>。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる<ref>井上俊『武道の誕生』、[[吉川弘文館]]、2004年、7頁。{{ISBN2|4642055797}}</ref>。
その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は[[武道]]([[日本武道]]、日本九大武道([[日本武道協議会]]加盟九団体))>)の筆頭に名を連ねている.
 
=== 警察と柔道 ===
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また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は[[天神真楊流]]などの他流柔術出身の実力者であった。
この試合の後、[[三島通庸]][[警視総監]]が講道館柔道を警視庁の必修科として[[警視庁武術世話掛|柔術世話掛]]を採用した為、全国に広まっていったという{{efn|なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、[[山下義韶]]の回想記(雑誌『[[キング (雑誌)|キング]]』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に[[講道館四天王]]の[[西郷四郎]](小説『[[姿三四郎]]』のモデル)が好地円太郎に[[山嵐 (柔道)|山嵐]]で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある。}}。
[[日本の警察官]]は柔道又は[[剣道]](女性のみ又は[[合気道]])が必修科目となっている。[[警察学校]]入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。[[警察署]]では[[少年|青少年]]の健全育成のための[[在籍者 (学習者)|小中学生]]を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。
 
=== 大日本武徳会における柔道 ===
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しかし武徳会において、制定されていた従来の武徳会称号「[[範士]]」「[[教士]]」「[[精錬証]]受有者(昭和9年以降「[[錬士]]」)」の制度以外に、講道館柔道の採用に際し、修行の進みに応じて発行する講道館の制定した段級位も各部門において採用することとなる。当初は武徳会でも、柔道段位は講道館の認定の元、正式発行が行われていたが、時とともに講道館の認定を受けず独自に段位を発行するようになる。武徳会において段位を受けた者、修業をした者は武徳会に帰属意識を持つようになり、講道館と武徳会はそのことで軋轢も生まれ、云わば(講道館)柔道という一つの統一流派を、東の講道館と西の大日本武徳会という二つの組織が重なり合いながら時に対立を含みながら共存し互いに管理、執行するという構造になっていった。<ref>小谷澄之ほか 編『嘉納治五郎大系』第1巻 講道館柔道、講道館 監修、[[本の友社]]、1988年、303頁「講道館と第日本武徳会との関係について」</ref><ref>柔道大事典編集委員会 編『柔道大事典』嘉納行光ほか監修、[[アテネ書房]]、1999年、「大日本武徳会」の項。{{ISBN2|4871522059}}。</ref><ref>藤堂良明『学校武道の歴史を辿る』日本武道館、2018年、第13章 大日本武徳会の設立と影響 2 大日本武徳会の柔道。{{ISBN2|978-4-583-11195-7}} C0075。</ref>
'''戦時中の柔道については''' {{Main|#日本軍への採用・影響}}
その後、1946年(昭和21年)11月9日、[[大日本武徳会]]は[[連合国軍最高司令官総司令部]]([[連合国軍最高司令官総司令部| (GHQ]])) の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。
しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1932年にドイツにおいて結成されていた[[ヨーロッパ柔道連盟]]が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
 
=== 学校教育での柔道 ===
日本の[[学校教育#日本の学校教育|学校教育]]においては、[[1898年]](明治31年)に[[旧制中学校]]の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。
経緯については{{Main|#体育としての柔道(体育法)}}[[太平洋戦争]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]] (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、[[1950年]](昭和25年)に[[文部省]]の[[新制中学校]]の選択科目に柔道が採用された。次いで[[1953年]](昭和28年)の[[学習指導要領]]で、柔道、[[剣道]]、[[アマチュア相撲|相撲]]が「格技」という名称で正課の[[授業]]とされた{{要出典|date=2018年8月}}。[[1989年]]([[平成]]元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。[[2012年]](平成24年)4月から中学校[[体育]]で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)<ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1330882.htm 武道・ダンス必修化 文部科学省]</ref><ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/judo/1318541.htm 柔道の授業の安全な実施に向けて 文部科学省]</ref>。
 
=== 学校体育と柔道 ===
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==== 上記以外の技 ====
* [[リストロック|小手挫]]([[小手捻]]) 明治時代に存在し、削除されたが、講道館護身術に再採用された。
* [[小手返]] 講道館護身術にある。
* [[首挫]] 削除されたが、明治時代には存在した。
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=== 審判員 ===
[[審判員]]は[[主審]]1名、[[副審]]2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は主審1人となる。副審2名は審判委員席で二人並んでビデオを確認しながら無線で主審と従来通り多数決裁定で試合を進めていく。[[ジュリー (柔道)|ジュリー]](審判委員)も試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える<ref name="規定">[http://www.judo.or.jp/p/31724 国際柔道連盟試合審判規定(2014-2016)]</ref>。2018年までに副審はビデオを確認しないことになった。しかし、試合場には戻らず無線で主審と連絡し従来通り多数決により試合を進めていくこととなった。副審が試合場にいないと試合が他の者から見やすいのであった。ビデオ確認の担当はかつての審判委員とは限らずスーパーバイザーがやることが多くなった。
 
審判に抗議する事はできない(講16条)。
512行目:
: 一本:20秒間(講:30秒間)抑え込んだ場合。
: 技あり:10秒以上20秒未満(講:25秒以上30秒未満)、抑え込んだ場合。
: 有効:10秒以上15秒未満(講:20秒以上25秒未満)、抑え込んだ場合(2017(2017年より廃止)
 
* 2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。
528行目:
:;指導
::立ち姿勢で極端な防御姿勢をとる、消極的な態度、攻撃の意志がないなど
::帯や上衣の裾を相手の腕に1周以上巻き付け括る
::など
 
534 ⟶ 535行目:
::など
 
:;警告または反則負け
::立ち姿勢から体を一挙に捨てて[[腕挫腋固]]を取ること
::[[河津掛]]
::柔道精神に反する行為
::[[蟹挟]](大会の程度によって禁止にも認めることもできる)
::など
 
:;反則負け
::[[内股]]、[[跳腰]]、[[払腰]]などの投げ技の際、自ら頭から突っ込む
::立ち姿勢から体を一挙に捨てて[[腕挫腋固]]を取ること
::[[河津掛]]
::投げ技の際、自ら頭から突っ込む
::柔道精神に反する行為
::など
 
;国際規定
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::立ち姿勢で極端な防御姿勢をとる、消極的な態度、攻撃の意志がない
::両者立ち姿勢での関節技・絞め技
::帯や上衣の裾を相手に1周以上巻き付け括る
::脚掴み。帯より下の帯と一緒ではない裾掴みを含む脚掴み
::頸部以外を絞める
::絞め技・関節技のさい、過度に相手の脚を伸ばす
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=== 禁止事項に対する罰則 ===
禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際ルールでは、指導は3回目までスコアにならず、技のスコア以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする<ref name="規定"/>。
 
: 「1回目の指導」(講)では、得点は与えられない。
: 「2回目の指導(注意)」(講)では、相手側に「有効」の得点が与えられる。
: 「3回目の指導(警告)」(講)では、相手側に「技あり」の得点が与えられる。
: 「3回目の指導」(国)では、「反則負け」に。
: 「反則負け」(講)では、相手側に「一本」の得点が与えられる。
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* 2003年までに国際規定において、抑え込み中に、抑え込まれている者が、相手の脚を上からでも両脚で挟むことができた場合、「解けた」となる。
* [[2008年]](平成20年) - 国際規定でスコアの「効果」を廃止。(2009年1月実施)
* [[2009年]](平成21年)10月 - 国際規定において[[双手刈]]・[[朽木倒]]等の脚取り技を制限(禁止ではない)。1度目は指導、2度目は反則負けに。
* [[2010年]](平成22年) - 国際規定「抱きつき」 (bear hug) を規制<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20100906-OYT1T00873.htm いきなり抱きつく攻撃はダメ、柔道に新ルール] [[読売新聞]] 2010年9月6日</ref>。脚取り技を1度目で反則負けに<ref>{{PDFlink|[http://www.judo.or.jp/article/1336-newrule2010/attach/2010newijfrule0318.pdf 国際柔道連盟(IJF)試合審判規定改正]}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年) - 2013年2月の[[グランドスラム・パリ2013|グランドスラム・パリ]]から8月の[[2013年世界柔道選手権大会|リオデジャネイロ世界選手権]]までの期間、国際規定において畳上1人審判制、ピストルグリップやクロスグリップや帯を持った場合は即座に攻撃しなければ指導が与えられる変則組み手や組み手争いに対する罰則強化、襟や袖を持たない手腕で帯から下を掴む行為足取りの全面禁止、旗判定の廃止、抑込技の時間短縮、抑込技[[裏固]]復活などの大幅なルール改正案が試験導入されることに決まった。この結果を検証して、正式導入されるか改めて協議されることになる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKF0486_Q2A131C1000000/ 柔道国際大会、1人審判を試験導入へ 連盟会長が明言] [[日本経済新聞]] 2012年11月30日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20121210-OYT1T01421.htm 柔道、「脚取り」全面禁止へ…国際大会新ルール] [[読売新聞]] 2012年12月10日</ref><ref>[http://www.intjudo.eu/upload/2012_12/09/135504772881923998/v_eng_refeeing_rules_2013_2016.pdf ENG-Refereeing-Rules-2013-2016]</ref>。
* [[2014年]](平成26年) - 2014年1月の[[コンチネンタルオープン]]から新たな[[国際柔道連盟|IJF]]試合審判規定が導入されることになった<ref name="規定"/><ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2013112800977 女子は4分間に短縮=柔道新規則] [[時事通信]] 2013年11月28日</ref>。相手の片腕と頭部を両腕で抱える肩三角グリップに立ち姿勢でなった場合は「待て」に。寝姿勢でも肩三角グリップから相手の胴を両脚で挟んだら「待て」に。立ち姿勢、寝姿勢の区別が変更に。背か腹か両手腕両膝を畳についていなければ立ち姿勢の相手が直ちに投げられればスコアの対象に。この時も立ち姿勢の相手への脚取りも禁止。両者が両膝をついてる場合は寝姿勢あつかいのまま。
* [[2015年]] - [[グランドスラム・東京2015]] 男子81 kg級準決勝戦で[[永瀬貴規]]が帯の外に出た相手の裾を掴んで反則負けとなるが、のちに誤審だったということになった<ref>[http://www.sanspo.com/sports/news/20151206/jud15120605040002-n1.html 永瀬、準決勝で魔さか反則負け…意地の銅でリオ五輪代表は内定/柔道] [[サンケイスポーツ]] 2015年12月6日</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASHD53DRZHD5UTQP002.html 永瀬、韓国選手に不可解な反則負け! 審判長は謝罪] [[朝日新聞]] 2015年12月6日</ref><ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/othersports/480747/ 【柔道グランドスラム誤審騒動】“被害者”永瀬の師匠は怒り収まらず] [[東京スポーツ]] 2015年12月8日</ref>。
* [[2016年]] - 国際規定において立ち姿勢で肩三角グリップから「待て」を無視して投げた場合は反則負けに。
* [[2017年]](平成29年)までに国際規定において投げ技で両肘または両手で着地した場合、技ありに。片肘、臀部、または膝で着地したのち続いて直ちに背中をついた場合、技ありに。
* [[2017年]](平成29年) - 国際規定において以下のような新ルールが適用されることになった。男子の試合時間は女子と同じく4分間になった。有効が廃止されて技のスコアは一本と技ありのみ。技ありは従来の「有効」を含むため、いくら取っても一本にはならない(技あり合わせて一本の廃止)。本戦で技のスコアが入らない場合は例え指導を取っていても勝利にはならず[[ゴールデンスコア方式]](以下GSと表記)に突入する。GSでは技のスコアか、本戦終了時の指導数の差に変化が生じた時に決着する。ただし、本戦終了時点で、与えられた指導が多かった選手がGSにおいて相手の指導により勝利するためには、相手が2回、もしくは3回連続で指導を受けることが必要となる。指導は3度取られると反則負け。脚取りは1度目が指導、2度目が反則負けに戻る。また、[[マウスピース]]の装着が認められることになった<ref name="jiji"/><ref name="ijf"/><ref>[http://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2017/03/ce52948bab3c7eecd73931288d15662d-1.pdf 国際柔道連盟試合審判規定(2017-2020)改正の要点]</ref><ref>[http://www.judo.or.jp/p/40542 【審判委員会】大会におけるマウスピース(マウスガード)の装着について(通達)]</ref>。
* [[2017年]](平成29年)- 講道館柔道試合審判規定改正。抑込技[[裏固]]が認められる。
* [[2018年]]までに国際規定では立ち姿勢での肩三角グリップからの投げ技は「待て」の前でも反則負けに。投げ技において着地やスコアを逃れようと頭から畳に突っ込んだ場合、ヘッド・ディフェンス (head defence)で反則負けに。立ち姿勢の自身の上衣を故意に帯から出すと指導に。
* [[2018年]](平成30年)- 国際規定において前年の暫定ルールに以下のような修正が加えられた。
** 技あり2つで一本(技あり合わせて一本)が復活した。技によるスコアか反則勝ちのみで勝負が決することになり、従来のようにGSにおける指導決着は取り除かれた<ref>[https://www.ijf.org/news/show/detailed-explanation-of-the-ijf-judo-refereeing-rules Detailed Explanation of the IJF Judo Refereeing Rules effective from 01 January 2018]</ref>。
** 投げ技で着地から間がなく転がって背が着いた場合、一本に。間があって転がって背が着いた場合、技ありに。過度に間があった場合はノースコアに。
** 投げ技で片肩から片臀部、片臀部から片肩、腰回りを背を着かないで転がった場合、技ありに。
660 ⟶ 661行目:
なお、2012年現在での[[講道館]]十段所有者は、[[山下義韶]]、[[磯貝一]]、[[永岡秀一]]、[[三船久蔵]]、[[飯塚国三郎]]、[[佐村嘉一郎]]、[[田畑昇太郎]]、[[岡野好太郎]]、[[正力松太郎]]、[[中野正三]]、[[栗原民雄]]、[[小谷澄之]]、[[醍醐敏郎]]、[[安部一郎]]、[[大沢慶己]](昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている<ref name="朝日新聞"/>。また[[国際柔道連盟]]での十段所有者は、[[アントン・ヘーシンク]]([[オランダ]])、[[チャールズ・パーマー]]([[イギリス]])、[[ジョージ・カー (柔道)|ジョージ・カー]](イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟の[[アンリ・クルティーヌ]]、オランダ柔道連盟の[[:nl:Jaap Nauwelaerts de Agé]]が十段位を取得している。女子では十段は[[福田敬子]](在アメリカ)ただ1人([[2011年]]8月に昇段)である(講道館は九段)。
 
昇級・昇段のためには全国の各団体が[[講道館]]の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・[[柔道形]]の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に[[講道館]]への入門を認められ、会員証が発行されると共に[[黒帯]]の着用が認められる。
 
[[ファイル:柔道の段帯.jpg|thumb|250px|柔道の段帯]]
686 ⟶ 687行目:
講道館における高段位の柔道家も、講道館と武徳会との両組織に並列して所属しており、柔道段位と柔道称号を並列して取得していた。
 
称号の始まりは、明治28年(1895(1895)に結成された大日本武徳会が、同年結成記念第1回武徳祭の大演武会に際し、優れた演武をした者に対し[[精錬証]]を授与したのに始まる。
武徳祭の大演武会は毎年行われ、優秀者には精錬証が授与された。
その後大日本武徳会員で武術・武道を鍛錬する者の地位を表示するために、1902年(明治35年)6)6月3日に「武術優遇例」が制定され、「[[範士]]」「[[教士]]」の最上位の称号が規定された。「武術優遇例」では最上位称号の範士には終身年金が送られた。「武術優遇例」は、1918年(大正7年)4)4月に「武道家表彰例」と改称され、さらに「武道家表彰例」は1934年(昭和9年)3)3月に改正が行われ、精錬証授与者を指して「[[錬士]]」号と改めた。
戦前の昭和17(1942)(1942年)まで万人を超える各種武術家に称号が授与されている。
 
最初(1903年[明治36年]5月8日)に柔術範士の称号を受けたのは、[[楊心流]]・千葉の[[戸塚英美]]、[[四天流]]・熊本の星野九門の両氏で、次いで嘉納治五郎が(1905年[明治38年]5月)範士の称号を受けている。
次いで(1909年[明治42年]6月)、[[竹内流]]・熊本の矢野広次、[[扱心流]]・熊本の江口弥三、[[起倒流]]・岡山の野田権三郎、[[関口流]]・和歌山の[[関口氏胤|関口柔心]]に範士号が授けられた。
 
嘉納治五郎はそれまでも「武徳会柔術試合審判規定」(1899(1899)、「武徳会柔術形制定委員会」(1906(1906)において諸流派の委員をまとめる委員長を務めていた。同様に、称号制定の当初から武徳会全武術の最高位の範士号・教士号の審査を担当する選考委員3名のうちに入っており(共に担当した委員は[[北垣国道]]、[[渡邊昇|渡辺昇]])、嘉納自身が範士号を授与されたのも他の授与者と比較して40代という若さでであった。また、1914年12月に武術詮衡委員が「柔道」「剣道」「居合」「弓術」「槍術」の各武術毎の委員に委嘱され選考されるようになった際にも、嘉納は全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱されている。
 
1914年、「範士」「教士」の最上位称号には、それまでの「柔術」「剣術」の表記に代わって特別に「柔道」「剣道」の名称が使用され明文化された。
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また、1919年(大正8年)に大日本武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し「柔術」部門も「柔道」部門に改称し統一したように、各諸流派柔術家は公的に柔道家となり活動していくことになる。
 
1917年(大正6年)、武徳会においてもそれまで講道館が使用していた[[段位]]制が導入される。その際に武徳会で発行可能な柔道(柔術)の段位は四段までとされ、五段以上の高段位を取得するには講道館から授与されるものとなっていた。
そのため、大日本武徳会においては講道館の柔道(柔術)の五段以上の高段位と同等のものとして柔道称号を使用することとなる。
その後、武徳会で他武道においても段位性を採用したことで講道館とは別に独自の柔道高段位も発行するようになっていくが、そのことで講道館と武徳会で軋轢も生まれることとなる。
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2.坐礼(ざれい)
 
:1)正坐(せいざ)のしかた
:正座するには、直立の姿勢から、まず左足を一足長半引いて(爪立てておく)、体を大体垂直に保ったまま、左膝を左足先があった位置におろす。次いで、右足を同様にひいて爪立てたまま左膝をおろす(この場合、両膝の間隔は大体握り拳二握りとする)。次いで、両足の爪先を伸ばし、両足の親指と親指を重ねて臀部をおろし体をまっすぐに保ってすわる。この場合、両手は、両大腿の付け根に引きつけて指先をやや内側に向けておく。
 
771 ⟶ 772行目:
 
戦前に文部省が制定した「昭和の国民禮法」では、「坐った姿勢」として「両足の拇指を重ね、男子は膝頭を三四寸位離し、女子はなるべくつけ」と示されている<ref>[[國民禮法研究会]]『昭和の国民禮法』[[帝国書籍協会]]228, 1941 </ref>。柔道においては、女子柔道という言葉が存在しており、男性のそれとは異なる部分があるという認識が持たれている。礼法においても正坐の膝頭の位置に関して、以下の指摘が見られる。伊藤四男は『女子柔道・護身術』で「膝は握り拳が一つ入るくらいに開く」<ref>[[伊藤四男]]『女子柔道・護身術』[[精文館書店]]、1965 </ref>、乗富政子は『女子柔道教本』で「両膝の間隔は4~5 cm位」<ref>[[乗富政子]]『女子柔道教本』[[潤泉荘]]、1972 </ref>、柳沢久、山口香は『基本レッスン女子柔道』で「正座した際に両膝をそろえる」<ref>[[柳沢久]]、[[山口香]]『基本レッスン女子柔道』[[大修館書店]]、1991 </ref>とし、講道館の”両膝の間隔は大体握り拳二握りとする”より狭い。
また、坐る時の”左足から坐って右足から立つ”「左坐右起」の方法は、1943(1943(昭和18)年に講道館と大日本武徳会との間で礼法の統一がなされた時に採用されたものである。講道館ではそれまで『柔道修行者礼法』に示されるように「右坐左起」の方法がとられていた<ref>[[中村民雄]]『今、なぜ武道か』[[財団法人日本武道館]]、2007</ref>。
 
== 稽古方法 ==
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=== 武術としての柔道(勝負法) ===
今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観は元々幅の広いものであった。嘉納は柔道修行の目的を「修心法」「体育法(練体法、鍛錬法とも言う)」「勝負法(護身法とも言う)」(時に「慰心法」を含む)とし、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では終極的な目的として下段・中段の柔道の修行で得た身体と精神の力(心身の力=能力・活力・精力)を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした<ref>『柔道大事典』p.214</ref>。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。
 
その一方で嘉納は武術としての柔道について「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く日本以外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており<ref>『嘉納治五郎著作集 第2巻』p.105</ref>、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ武術を拵えたいとの考えも持っていた。
 
==== 勝負法の乱取り====
嘉納は柔道に柔術のもつ武術性を求めていたが、しかし勝負に効き目ある手(当身技)が危険であり教えることが難しいため、従来の柔術諸流派の修行法と同じ様に「専ら形に拠って練習」 しなければならぬとした。しかし形だけではなく、そこから先へと進めた、当て身を含む乱取りも工夫すべきという考えを嘉納は早くから持ち続けた。
1889年の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において、嘉納は当身を含み対処する柔道の「勝負法の乱取り」の可能性、構想について述べている。「初めから一種の約束を定めていき又打ったり突いたりする時は手袋の様なものをはめてすれば、勝負法の乱捕も随分できぬこともない。形ばかりでは真似事のやうで実地の練習はできないから、やはり一種の乱捕があったほうがよい。」とし勝負法の技を実演している。
その際、勝負法の形のうちから簡単な技として5つほど、
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==== 離隔態勢の柔道====
嘉納亡き後も、嘉納の求めた「離れて行う柔道」の試行は講道館2代目館長[[南郷次郎]]や[[望月稔]]や[[富木謙治]]などに引き継がれ、1942年に講道館2代目館長南郷次郎時代に講道館において「柔道の離隔態勢の技の研究委員会」が設置されている。中でも富木謙治による離れて行う柔道の当身と立ち関節を主体とする「離隔態勢の柔道」の研究は、講道館護身術や合気道競技(柔道第二乱取り法)などとしてまとめられることになる。
 
富木謙治は、嘉納治五郎の遺した言説から、古流柔術各流派、合気柔術([[合気道]])、また剣術(剣道)を包括する嘉納の『柔道原理』を分析する。また柔道の技を、従来の乱取で行われる組む技(第一部門)「[[投技]]」・(第二部門)「[[固め技]]」と、従来の形で行われる(打・突・蹴や武器に対峙する)離れた技(第三部門)「[[当身技]]」・(第四部門)「(立ち)[[関節技]](手首関節や肘関節を捕っての立ち関節技や居取り技の投げや固め)」、の4種に再度分類し、「投技」・「固め技」の従来の乱取に対して、「当身技」・「関節技」によって行われる柔道の第二乱取法を提唱する。
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嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和十七年(1942年)に従来の[[大日本武徳会]]は改組が行われ、内閣総理大臣の[[東条英機]]を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。
 
昭和一八18年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、[[白兵戦]]闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。
柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中の頃より始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。
 
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==== 勝負の理論を世の百般に応用する ====
嘉納は柔道の修行について、勝負道の追求でもあり、勝負に勝つことが重要な目標になるともする。その勝負に勝つための理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できる物であるとする。その応用の部分は修心法の中でも随分面白くもあり有益であると嘉納は説く。嘉納の挙げる勝負の理論の応用の例について要約すると次のようになる。
自他の関係を見ること 迅速な判断 先を取れ(先の先、先、後の先) 熟慮断行 先を取られた時のなすべき手段 我を安きに置き、相手を危うきに置くこと 止まることを知ること 制御術 その他 等である。また、練習の必要 駆け引き 彼我の接触 眼の着けどころ おのれを捨てること 注意、観察、工夫 最善を尽くす 進退の仕方 あらゆる機会を利用する 格外の力に応じる時の心得 業に掛った時の心得なども嘉納の発言・著作から伺い知ることが出来る。
嘉納はこれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなす上で大きな利益の有るものであるとした。
最後に最も肝要なる心得の一つとして「勝ってその勝ちに驕ることなく、負けてその負けに屈することなく、安きに在って油断することなく、危うきにあって恐るることなく、唯々一筋の道を踏み行け」の教えを強調して、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。
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の大切さを強調している。
 
=== 娯楽や美育幅広い目的の柔道(慰心法) ===
嘉納治五郎は1889 (明治22)22) 年に大日本教育会において文部大臣らを招き、「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」と題した講演を行い柔道の目的として体育勝負修心を挙げて、「此學科ヲ全國ノ教育ノ科目ノ中ニ入レマシタナラバ目下教育上ノ缺点ヲ補フコトノ出来ル」と述べ全国の教育機関とりわけ中学校への採用と国民への普及を主張していく。
 
こうした嘉納の活動や剣道界の尽力により,1911、1911 (明治44)44) 年に撃剣・柔術が正課採用を果し柔道は日本の中学校における正科になる。その後嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて発表しさらに新しい要素(運動の楽しさ乱取試合そして形を見る楽しみ芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。
 
嘉納は当時国内において採用されていた西洋式の普通体操に面白みが無く学校卒業後に長く続けられないことに関する当時の教育家からの不満と、柔道の様々な利益逆に競技運動は面白く長く続けられるという社会的背景から慰心法の新しい発想を生み出した。
 
1913 (1913(大正2) 2)嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し又其理論を講究するものにして身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり精神を修養することよりいふときは修心法となり娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し柔道は「柔の理を原理とし身体鍛錬には体育法精神修養には修心法娯楽には「慰心法」そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。
 
「慰心法」の内容は「慰心法とは柔道を娯楽として修行する場合をいふ。眼の色を楽み耳の音を楽むが如く筋肉も亦運動して快楽を感ずるものにして人が他の人と筋肉を使用して勝負を決する如きは更に大なる快楽のこれに伴ふこと論を侯たざるなり且自ら其の快楽を感ずるのみならず其勝負の仕方業の巧拙等を味ひてこれを楽み得る素養ある人は他人の勝負を見ても快樂を感ずるはまた當然のことなり。殊に名人の試合及起倒流扱心流の形講道館五の形柔の形の如きものに至りては眞に勝負の形たる性質を離れ自ら美的情操を起さしむるものにして其の見る者に快楽を感ぜしむるや大なり。かく單純なる筋肉の快楽より高尚なる美的情操に至るまで快楽を得るを目的として修行するはこれを慰心法として柔道を修行すといふ」と述べ、
 
# 運動や勝負の楽しみ
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などを例に挙げた。
 
また修行に際しては「柔道はかく四様の着眼点より修行するを得るものなれど實際に於てはこれを兼ね修むるを得策とす・・・(中略)・・・慰心法として修むるときも亦同様にして実益の伴はざる娯楽は人事多端の世に於て多くこれを貧ることを得ざるものなれど種々の實益を伴ふ柔道の娯楽はこれを享くること多きも益を得ることありて毫も其弊を見ず」と述べ慰心法以外の目的を兼ねて練習を行うことで楽しみながらも体育や勝負修心上の利益を得ることが出来ると主張した。
 
しかしその後、嘉納の言説の中から「慰心法」の名称は見られなくなり、再び「体育法」「勝負法」「修心法」を中心としたものになっていく。それでも1915年3月の「立功の基礎と柔道の修行」の中に見られるように体育法としては
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といった3つの利点を挙げた。
 
嘉納は1について「柔道は他の運動に比して最も多くの目的を有し従って先から先へと尽きぬ興味がある。一体育そのものより外に目的のない運動やその目的の明かでない運動は興味を感じないものである。興味のない運動は人に持績して行はせることも出来ず熱心に練習させることも出来ず体育の方法として価値の少ないものである。然るに柔道は身体を強健にする外に己を護り人に勝つことを目的とし五體を自由自在に動作させることを目的とし精神の摩礪を目的として居る為に競争の興味業の熟練の興味人格向上の興味美的感情の養成その他言ひ蓋せぬ程多様の興味を喚起し知らず識らずの間に体育上の功果を収めることが出来る」と述べ競技の楽しさを魅力の1つに挙げている。このように「慰心法」の名称は消失するがその内容は柔道奨励の一手段として位置づけられていく。
 
しかし明治後期から対校試合の隆盛と共に試合に対する学生の関心は高まる一方で、学生間の紛擾や学校間の対立などが生じることになる。やがて大正後期になると高等専門学校柔道大会が活況を呈し学生が母校の名誉のために過熱し様々な弊害が現れてくることになる。それらに対し嘉納は慰心法に代わり、状況の改善策を講じ柔道を本来のあり方へ戻そうと腐心していくことになる。
 
時代は下り第二次大戦後には軍事的色彩が強しとして一時禁止されていた柔道であったが,1949 (、1949(昭和24) 24)年には全日本柔道連盟が結成され翌年(1950) には学校柔道も解禁される。
 
講道館の三代目館長となった[[嘉納履正]]は著書『伸び行く柔道一戦後八年の歩み一』において「スポーツとしての柔道」と題し「快適なスポーツとして柔道の練習方法を考へる場合必ずしも鍛錬主義が全面的によいとは言へず 教育的な見地からその対照によっては再考すべき点もあるであらう。講道館柔道を一部では旧弊な非スポーツ的なものであるといふ様な誤解もあるが遠く明治四十三年に嘉納治五郎の書いた柔道の説明の内に 柔道は・・・(中略) ・・- 娯楽を享受する事より云ふ時は慰心法となり・・・(中略)・・・とある様に娯楽としての柔道の面も唱ってゐるので決して講道館柔道は単なる武道的な厳しい面を強調するものでなく心を慰むるものとして則ちスポーツの字義通りの内容をも具備するものである」と述べこれまでの柔道は勝負や精神面が強調され過ぎたが娯楽の意義も今後大切であると説いている。柔道「慰心法」の存在と意義を再認識する時ともいえる。<ref>桐生習作『柔道「慰心法」の導入と嘉納治五郎の思想』</ref>
 
== 高専柔道、七帝柔道 ==
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== 日本武道館と柔道、武道憲章 ==
1961年(昭和36年)6)6月、柔道が[[1964年東京オリンピック]]の正式競技に決定すると柔道愛好者の国会議員は国会議員柔道連盟を結成した。
同連盟会長に就任した衆議院議員[[正力松太郎]](のちに柔道十段、[[講道館]]殿堂)は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明。同年6月30日、武道会館建設議員連盟を結成し、会長:正力松太郎、副会長:[[水田三喜男]](柔道五段、剣道三段)、[[松前重義]](のち[[全日本柔道連盟]]理事・[[国際柔道連盟]]会長)、[[佐藤洋之助]]、[[赤城宗徳]](剣道範士)が就任した。
 
1962年(昭和37年)1)1月31日、文部大臣の認可を得て財団法人[[日本武道館]](会長:正力松太郎、副会長:[[木村篤太郎]](<初代[[全日本剣道連盟]]会長(初代))、松前重義、理事長:赤城宗徳)が発足。
 
1964年(昭和39年)9)9月15日に日本武道館が落成し、同年10月3日、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]を迎え開館式を行った。
 
同年10月10日に東京オリンピックが開催され、10月15日に日本武道館において剣道・弓道・相撲のデモンストレーション、10月20日〜23日に[[1964年東京オリンピックの柔道競技|東京オリンピック柔道競技]]が実施された。
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日本武道館創設から副会長等を歴任し、全日本柔道連盟理事・国際柔道連盟会長にも就任する第四代会長・松前重義の任期には、1977年(昭和52年)4)4月23日に日本武道館の中に[[日本武道協議会]]が発足し、1987年(昭和62年)4)4月23日 日本武道協議会設立10周年記念式典において武道憲章制定が行われている。
 
武道憲章においては、「武道の新たな発展を期し、基本的な指針」として次のように掲げている。
 
(目的) 第一条:武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする。
 
(稽古) 第二条:稽古に当たっては、終始礼法を守り、基本を重視し、技術のみに偏せず、心技体を一体として修練する。
 
(試合) 第三条:試合や形の演武に臨んでは、平素錬磨の武道精神を発揮し、最善を尽くすとともに、勝っておごらず負けて悔まず、常に節度ある態度を堅持する。
 
(道場) 第四条:道場は、心身鍛錬の場であり、規律と礼儀作法を守り、静粛・清潔・安全を旨とし、厳粛な環境の維持に努める。
 
(指導) 第五条:指導に当たっては、常に人格の陶冶に努め、術理の研究・心身の鍛錬に励み、勝敗や技術の巧拙にとらわれることなく、師表にふさわしい態度を堅持する。
 
(普及) 第六条:普及に当たっては、伝統的な武道の特性を生かし、国際的視野に立って指導の充実と研究の促進を図るとともに武道の発展に努める。
 
[[全日本柔道連盟]](全柔連)も入居する講道館にのちに入居した[[全日本学生柔道連盟]](学柔連)だが全柔連対学柔連の内紛のころは日本武道館に入居していた。そのためこの内紛は「講道館対武道館」とも表された。
 
== 他の武道、格闘技への影響 ==
柔道の影響を受けた武道、格闘技として、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]、[[日本拳法]]、[[富木流合気道]](合気乱取り)、[[ブラジリアン柔術]]などがある。
 
日本拳法は、柔道家の[[澤山宗海]]が柔道では廃れてゆく当身技の練習体系を確立する為に創始した。
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サンボは講道館で柔道を学んだロシア人[[ワシリー・オシェプコフ]]によりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。
 
富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技(離隔態勢の柔道)の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎により、合気道の[[植芝盛平]]のもとへ派遣されていた[[富木謙治]]によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。
 
[[ブラジリアン柔術]]は、講道館三羽烏や玖馬の四天王(海外四天王)とも称された[[前田光世]]([[コンデ・コマ]])が海外での柔道普及に際し、海外で異種格闘技戦を戦い磨いた柔道技術を元にブラジルにおいて[[カーロス・グレイシー]]が教授された技術、またその後の{{要出典|date=2020-05-23|[[高専柔道]]技術を研究し取り込みまとめた}}柔道派生の格闘技という説が強い。
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講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた[[望月稔]]の[[養正館武道]]にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。
 
[[国際柔術連盟]] (JJIF) で行われている[[柔術ファイティングシステム]]にも柔道の影響が伝統空手の技術と共に強く見受けられる。JJIFはまた、ブラジリアン柔術を[[ヨーロピアン柔術#寝技柔術|寝技柔術]]の名で実施もしている。[[国際柔術連盟]]の[[国内競技連盟]]は[[フランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟]]など約8カ国で[[国際柔道連盟]]の国内競技連盟と同一団体で二重加盟している<ref name=JJNOs>{{Cite web| people =| title =THE JJIF NATIONAL ORGANIZATIONS (JJNOs) | medium = | publisher =国際柔術連盟|location =[[UAE]]・[[アブダビ]] | date = | url =http://jjif.org/index.php?id=84|accessdate=2019-10-21}}</ref><ref>{{Cite web| people =| title =Countries / IJF.org | medium =jpeg | publisher =[[国際柔道連盟]]|location =[[スイス]]・[[ローザンヌ]] | date = | url =https://www.ijf.org/countries|accessdate=2019-10-22}}</ref>。(2019年10月現在)
 
[[琉球]]([[沖縄]])で発祥した唐手(空手、[[空手道]])は講道館創始者嘉納治五郎の紹介によって本土に上陸し、1933年、[[大日本武徳会]]沖縄県支部より日本の武道、柔術の流派として承認され、1934年に大日本武徳会において柔道部門の中に組み入れられる。当時の唐手は自由乱取りに相当する[[組手 (空手)|組手]]は存在せず型のみが行われていたが、柔道の[[乱取り]]や剣道の[[竹刀稽古]]を参考に本土上陸後に組手が研究され整備されていく。また講道館柔道が整備した今日のような道着や色帯制度、段位性を唐手改め空手は武徳会時代・柔道傘下時に採用する。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦後、柔道や剣道は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による武道禁止令の影響を大きく受け、柔道はその三大部門の一つであった[[当身技]]が制限・軽視されることになる。当時国内での影響力も少なく制限を受けることの少なかった空手は戦後の柔道の当身技の軽視の間隙を突いて進出することになる<ref name="松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店"/>。
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嘉納治五郎の時代から他の柔術、格闘技から多くの技が導入されていたが、それ以降、他の格闘技から柔道に導入された技としては[[ジョージア (国)|ジョージア]]のチタオバの技を改良した[[帯取返]]のハバレリ、[[イラン]]のレスリングからの[[ギャヴァーレ]]、総合格闘技からの裸絞の[[裸絞#ペルビアン・ネクタイ・チョーク|ペルビアン・ネクタイ・チョーク]]などがある。国際規定では2013年からの脚掴み全面禁止によりハバレリは一部使用困難に、ギャヴァーレは使用できなくなった。
 
[[2012年ロンドンオリンピックの柔道競技|2012年ロンドンオリンピックでの柔道]]における日本人選手の苦戦を受けて、就任発足した[[井上康生]]日本男子代表監督体制では、「国際化したJUDOは世界の格闘技の複合体になった。柔道の枠の中に収まっていては、新たな発想は生まれない」とし、色々な格闘技が流入した世界の柔道に勝つために[[ブラジリアン柔術]]、[[サンボ]]、[[モンゴル相撲]]、[[沖縄角力]]などの民族格闘技との積極的な交流、練習の取り入れを行い、強化を図った。また、組手を取り合う際の対策、強化として柔道の当身の練習に通じる、打撃のミット打ちの練習なども取り入れるなど改革・創意工夫を進めた。<ref>[[ひるおび]]TBS系列 2016年8月15日放送</ref>
 
[[2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道競技|2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道]]を見た[[溝口紀子]]は寝技での「待て」が従来より遅くなったのは、オリンピックでは寝技の存在感を上げ、近年、隆盛著しい寝技中心のブラジリアン柔術へ人々が流れていくことを防ぐ意図があるのではないか、と述べている。また、国際柔道連盟がブラジリアン柔術を傘下に入れようとしたが失敗したことも述べている<ref>{{Cite web |date=2016年8月12日 |url=https://twitter.com/mysomizo/status/763827939385352192 |title=twitter - 溝口紀子 |website=[[twitter]]|location= |accessdate=2020-05-25 |quote=今大会、これだけ寝技を長くみるのは(略)。近年、寝技を中心としたBJJの隆盛が著しく、IJFは統合を目論んだが、BJJ傘下に入ることを拒みました(中略)。五輪ではで寝技のプレゼンスを高めることで、BJJへの流入を防ぎたい(略)|auther={{Twitter|id=mysomizo|name=溝口紀子}}}}</ref>。
 
2019年、2020年の1月に全日本女子代表チームは強化合宿で[[日本ブラジリアン柔術連盟]]会長の[[中井祐樹]]らにブラジリアン柔術の指導を受ける<ref>[全日本強化合宿] 『近代柔道』誌 2019年2月号 [[ベースボール・マガジン社]]</ref>。
 
== 柔道とウェイトトレーニング ==
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嘉納は、世界に柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれる[[ユージン・サンドウ]]が著した筋力トレーニングの書籍『Sandow's System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。
 
また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、[[ウエイトリフティング]]の技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。
 
嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、[[若木竹丸]]などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。柔道家[[木村政彦]]などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。
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== 嘉納治五郎の柔道における修心活動 文化会、啓蒙雑誌、講演活動 ==
講道館柔道の創設者の嘉納治五郎は、教育者としても第一人者であり、学習院教授・教頭、旧制熊本第五高等学校(のちの熊本大学)校長、第一高等学校(のちの東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部)校長、東京高等師範学校(東京教育大学を経たのちの筑波大学)校長、文部省などの学校教育に関わる傍ら、日本傅講道館柔道を創始し活動を広げていった。その一方で親類や知人の子弟を預かり、嘉納が彼らと共に生活をしながら指導教育を行う私塾活動を行った。
 
1882年創立の嘉納塾以降、1888年善用塾、成蹊塾、1900年全一塾と対象年齢毎の私塾を展開していく。そこでは知育、徳育、体育のどれにも偏らない教育を塾の方針とし、そこから[[杉村陽太郎]]、[[高島平三郎]]、[[南郷次郎]]、[[嘉納徳三郎]]など様々な各方面に活躍する多くの卒業生が巣立っている。
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などに見られるように、[[老子]]はたびたび水をひきあいに出し水の「流動性、順応性、変幻自在な動き」が、堅強を崩せる要素であると指摘している<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明"/>。
 
また「「道」は万物を生み出すのみならず、すべてを受け入れる。「道」の形容詞が「柔」(或いは弱)とすれば、「剛、強、堅」などの形を成すものは全て「柔」から生まれて「柔」に帰ることになる。「柔」は全ての物を包含するのである」<ref name="ReferenceE">「柔の意味に関する研究」籔根敏和、岡田修一、山崎俊輔、永木耕介、猪熊真</ref> と解釈もされる。
 
=== 『三略』における柔 ===
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だが歩行、駆け足、跳躍なんかはだれでも出来る。また費用も要らない。単に歩行することは面白くないかもしれぬが、神社仏閣に詣でるとか、名所旧跡を訪ねるようにすれば、道徳教育とも結びついてくる。大いに奨励すべきことだ。水泳もやらねばならぬ運動である。(中略)そしてすでに高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励して実践させていた。
 
(中略)だから武道と戸外スポーツとは、どうしても両々相俟って発達していくようにしたいと思っていた。(中略)西洋で発達したオリンピック競技もこれを取り入れ、武士道精神を加味させることは出来ない相談ではないと考えた。」
 
そして他競技上でも日本人のオリンピック参加における大きな展望を掲げていた。
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*2007年7月、大阪府高槻市金光大阪高校柔道部1年生男子生徒が練習中に脳震盪で倒れた3日後に昇段審査などの講習会に参加。模範演技後に頭痛を訴えるも取下げられ、会場に駆けつけた母親の119番通報で病院に搬送。急性硬膜下血腫を発症し遷延性意識障害による意識不明の寝たきり状態になり、後、本人を含む家族が、学校法人、全日本柔道連盟、大阪府柔道連盟を相手に計約4億円の損害賠償を求める。全柔連への請求を除き、大阪地裁 <small>(佐藤達文裁判長)</small> にて約1億円の和解金を支払うことで合意。
*2008年、[[横浜商科大学高等学校#事故・訴訟|横浜商科大学高等学校柔道部員後遺障害事件]]
*2009年、広島県の[[尾道中学校・高等学校|私立尾道高等学校]]1年生男子生徒が柔道部の練習中に畳で頭を強打し急性硬膜下血腫を発症、高次脳機能障害を負う。後、被害者本人と両親が同校を運営する尾道学園に計約1億4400万円の損害賠償を求めた。2015年8月、広島地裁尾道支部 <small>(次田和明裁判官)</small> は「事故を防ぐための適切な措置を講じる義務に違反した」として同学園に計約8150万円の支払いを命じた<ref>[https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150820-OYTEW50853/ 記憶・言語障害や視野狭窄…柔道練習で後遺症、学校側に賠償命令] 読売新聞 2015年8月20日</ref>。
*2009年7月29日、滋賀県愛荘町立秦荘中学校<!--http://www.asahi.com/articles/ASK287K8JK28UTIL04G.html 部活の柔道、息子は死んだ 母は裁判後も闘い続ける 朝日新聞 2017年2月12日-->柔道部の練習中、部員(当時12歳)が上級生との乱取り稽古後「声が出てない」との理由から柔道部顧問(当時27歳)の直接指導を受け。二度投げ一度締めの合わせ技を蒙った直後に失神、顧問が平手で殴打するも搬送先の病院で急性硬膜下出血で意識が戻らないまま1か月後に死亡。後、愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会を設置。
:[http://judojiko.net/dl_data/aishou_jiko_kenshou100714.pdf 「愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会報告書」](※PDF)(※PDF) <span style="font-size:60%;">愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会 平成22年7月14日</span>
<!--http://www.town.aisho.shiga.jp/reiki_int/reiki_honbun/r304RG00000880.html
http://www.pref.shiga.lg.jp/a/bunken/files/6dantaisympo25-siryou2.pdf
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*2010年5月1日、[[大分県立竹田高等学校]]柔道部合同合宿練習中に男子生徒部員(当時17歳)が大外刈を受けて頭部を強打し緊急搬送、同日深夜に搬送先病院にて死亡した。司法解剖の結果、死因は急性硬膜下出血と判明。
*2011年6月15日<!--17時頃-->、[[名古屋市立向陽高等学校]]の武道場において1年生男子部員が乱取り稽古中に大外刈で投げられ頭部を強打、休憩中に体調不良を訴え流延を発症し緊急搬送を要請、搬送先病院にて急性硬膜下血腫の緊急開頭手術を行うが同年7月23日に死亡。
:[http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000052/52831/houkokusyo.pdf 事故調査報告書](※PDF(※PDF 外部リンク)
 
*2014年10月、[[福岡市]]内の道場で稽古を受けていた中学校2年生男子部員が指導者から「[[絞め落とし]]」を掛けられて一時意識不明となった。元部員被害男性は[[福岡地方裁判所]]に2015年2月にこの指導者を相手取り提訴。一・二審は男性の訴えを認めて4万4,000円の支払いを命じ、2018年6月19日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は、指導者側の上告を受理しない決定をし、賠償が確定した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180704/k00/00m/040/093000c 損害賠償訴訟 柔道絞め落とし「違法」の判決確定] 毎日新聞 2018年7月4日</ref>。
*2015年5月22日夕、[[福岡市立席田中学校]]柔道部の約束稽古中、大外刈をかけられた女子部員(当時13歳)が頭部を強打、意識不明に陥り、翌日搬送先病院で死亡<!--産経新聞 2015年-->。後、市は事故調査委員会を設置<!--時事通信社 2015年-->。
:[http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/51810/1/Judohoukokusyo.pdf 福岡市立中学校柔道事故調査報告書](※PDF(※PDF 外部リンク) <small>福岡市柔道安全指導検討委員会 平成27年12月・福岡市</small>
 
*2016年4月25日、仙台市内の私立高校の柔道部に所属する3年生男子部員(当時17歳)が部活動の試合中に頸椎と脊髄を損傷、緊急搬送されて手術を行うも、同年5月13日に死亡<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201605/20160513_13044.html 柔道の試合後に部員死亡 仙台の私立高] 河北新報社 2016年5月13日</ref>。
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;その他事例
*[http://judojiko.net/apps/wp-content/uploads/2011/01/judo_fatal_cases.pdf 学校管理下の柔道死亡事故 全事例](※PDF)(※PDF)全国柔道事故被害者の会
 
;判例<!--http://www.courts.go.jp/-->
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/495/020495_hanrei.pdf 昭和49(49()2185)2185 損害賠償請求事件]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/746/062746_hanrei.pdf 平成6(6()1237)1237 損害賠償]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/421/008421_hanrei.pdf 平成9(9()1282)1282 損害賠償請求]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/720/036720_hanrei.pdf 平成16(16()484)484 国家賠償請求事件]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/771/037771_hanrei.pdf 平成18(18()283)283 損害賠償請求事件]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/044/083044_hanrei.pdf 平成22年(ワ)第3461号 損害賠償請求事件]
*[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/444/083444_hanrei.pdf 平成22(22()8232)8232 損害賠償請求事件]
*平成23年 () 第251号 損害賠償請求事件 大津地方裁判所<!--判例時報2199号-->
 
;関連出版物
*「柔道事故」内田良(著)河出書房新社 2013年6月21日 {{ISBN2|4309246230}}
*「それでもボク柔道好きだから <small>―柔道事故と黒帯の品格</small>」テレビ信州 (編集)・テレビ信濃= (編集) 龍鳳書房 2015年10月 {{ISBN2|4947697520}}
 
=== 柔道事故の統計 ===
2000年から2009年における日本の中学柔道での競技人口10万人当たりの平均死亡率は柔道2.376人/年、2番目に高率な[[バスケットボール]]で0.371人/年であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや[[野球]]などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の[[絶対値]]は[[水泳]]や[[陸上競技]]のほうが多い(独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]が平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。
 
学校管理下における柔道練習中での死亡に至る児童生徒の数は年平均4人超というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている<ref>[http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2781906/6629423 中学校での武道必修化、子どもの柔道事故に懸念] AFP News 2011年1月9日</ref>。[[名古屋大学]]内田良の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。[[後遺症]]が残る障害事故は1983年から2009年にかけて275件で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている<ref>内田良、「[https://hdl.handle.net/10424/2931 柔道事故─武道の必修化は何をもたらすのか─(学校安全の死角(4)]」『愛知教育大学研究報告. 教育科学編』 2010年 59巻 p.131-141</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120117-OYT1T00433.htm 中高生114人、柔道で死亡していた…名大調査] (2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧</ref>。
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=== 柔道事故と民事訴訟 ===
柔道の事故に関して日本には[[全国柔道事故被害者の会]]が存在する。[[クラブ活動|部活動]]後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷が殆ど無い為に柔道事故と死亡の[[因果関係 (法学)|因果関係]]の立証が困難になる<ref>[2009年7月 http://judojiko.net/news/364.html 滋賀県愛荘町立秦荘中学校柔道部の事故]では、第1回口頭弁論の段階では町側は過失について争う姿勢を見せていた([http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120124000141 町側が過失認める 愛荘の中学生柔道部員死亡訴訟] 京都新聞 2012年01月24日 22時30分)([http://www.asahi.com/edu/news/TKY201201250195.html 中学柔道部死亡事故で元顧問の過失認める 滋賀・愛荘町] 朝日新聞 1/25)</ref>。
 
=== 柔道事故対策 ===
柔道事故に対して(財)[[全日本柔道連盟]]は安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発している<ref name="renmeitaisaku">(2011(2011年度) http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf</ref>。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の[[後遺障害]]に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。
 
『[[ゴング格闘技]]』は2010年6月の[[七帝柔道]]大会の試合後に[[松原隆一郎]](東大教授)と[[増田俊也]](作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120118-OYT8T00700.htm 柔道部練習で高2が首脱臼、首から下が不随に](2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧</ref>。
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=== 柔道事故とNHK番組 ===
{{単一の出典|section=1|date=2013年9月}}
日本では「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い<ref name="nhk_closeup">NHK[[クローズアップ現代]] 「“必修化”は大丈夫か 多発する柔道事故」20120206 [http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120206-21-10831&pf=f]</ref>。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある<ref name="nhk_closeup" />。
 
日本の[[文部省]]の対応は非常に杜撰で誠意の無いものであり、[[日本国政府]](文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事故が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることすら無かった<ref name="nhk_closeup" />。
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こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた<ref name="nhk_closeup" />。
全国日本の[[体育]]教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態なのに、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまである<ref name="nhk_closeup" />。指導者としてのレベルには全然達していない<ref name="nhk_closeup" />。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される<ref name="nhk_closeup" />{{refnest|group=注釈|関連項目:[[未必の故意]]}}。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない<ref name="nhk_closeup" />。
 
全国の[[体育]]教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態なのに、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまである<ref name="nhk_closeup" />。指導者としてのレベルには全然達していない<ref name="nhk_closeup" />。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される<ref name="nhk_closeup" />{{refnest|group=注釈|関連項目:[[未必の故意]]}}。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない<ref name="nhk_closeup" />。
 
[[フランス]]は日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国になったが、かつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための[[国家資格]]を設立、[[応急処置|救急救命]]や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし<ref name="nhk_closeup" />、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした<ref name="nhk_closeup" />。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である<ref name="nhk_closeup" />。
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=== 感染症 ===
日本では2001年頃から肉体の接触で皮膚感染する[[トリコフィトン・トンズランス]]感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能<ref>公益財団法人 全日本柔道連盟<タムシ>「皮膚真菌症(感染症)について」 Q & A http://www.judo.or.jp/data/data-shinkin.php</ref>。
 
== 脚注 ==
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* [http://www.juaonline.org/index.asp JUA] - [[アジア柔道連盟]] {{En icon}}
* [http://www.judo.or.jp/ AJJF] - [[全日本柔道連盟]] {{Ja icon}}
* [http://judob.or.jp/ 日本視覚障害者柔道連盟]
 
; その他