「藤村義朗 (海軍軍人)」の版間の差分

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=== 藤村の主張 ===
藤村が太平洋戦争末期に和平工作に携わったことは、戦後の1951年に雑誌『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』5月号に藤村自身が発表した「痛恨!ダレス第一電」と題する手記によって広く知られることとなった。この中で藤村は、
*1945年4月23日に和平工作を開始することを決め、ハックからダレスの秘書フォン・ゲベルニッツ(藤村は「ゲバーニッツ」と記載)に連絡を取り、先方からは交渉を開始して差し支えないという回答を得た
*5月8日に、東京の海軍省に対して、ダレスとの工作についての最初の電報を打った。これに対して海軍省からは「敵による陸海軍離間策ではないか」との回答が来た
*驚いてそのような意図はないことを述べて、説得する返電を送った。さらに自らが東京に行って話す方法はないかという電報を送り、一方ダレス側からは、アメリカが責任を持ってスイスまで運ぶので、大臣か大将クラスの代表者を呼べないかという提案を受けた
*しかし、6月下旬に海軍省から「趣旨はよくわかったから、この件は現地の公使などと連携して善処されたい」という回答が来た。これを見て「東京に人なし」と痛憤した
 
といった内容を記している。
 
これにより、藤村は「幻の和平工作に携わった人物」として一躍脚光を浴び、その後も和平工作について書いたり話す機会を持った。その中で、当初なかった内容が加わっていった。たとえば、
*OSSとの接触は自分自身でもおこない、ダレスとも直接会見した
*藤村は実に35本もの[[電報]]を打ったが全て外務省に握り潰された
*現地の8月14日午後([[日本標準時|日本時間]][[8月15日]]早朝)、つまり[[玉音放送]]送出が決まる12時間前、運よく繋がった[[国際電話]]で海軍大臣副官が「藤村、あの話(和平の件)、何とかならんかね」と言ってきた。電話を受けた藤村は「ダレスとの交渉の事ですか」と問い返し、傍でこれを聞いたハックは思わず「バカヤロー! 百日遅い! 今頃何を言ってんだ」と怒鳴った
 
といったものである(最後のものは1975年刊行の[[大森実]]『戦後秘史』で初めて出た)。
 
これに沿った内容はテレビ番組で、藤村の没後も取り上げられている<ref>[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「太平洋戦争秘話『緊急暗号電、祖国ヨ和平セヨ! ―欧州から愛をこめて―」1975年12月18日(大森実『戦後秘史』が原作)。この放送内容を巡り、小島秀雄は「事実と違う」と記した文章を発表し、それに対して藤村が「謝りに来た」と小島は『海軍反省会』で述べている(下記外部リンク「日瑞関係のページ」を参照)。</ref><ref>日本テレビ「[[知ってるつもり?!]]」2000年5月28日放送分『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』[http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000528.html]</ref>。
 
=== 電報記録による検証 ===