「ウクライナ民族主義者組織」の版間の差分

 
OUNは、一時2万人の組織員を抱え、ポーランドやソ連の要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行うとともに、さまざまな宣伝活動や啓蒙活動も行った。代表例としては、1934年6月15日には、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]内務大臣[[ブロニスラフ・ピエラキ]]([[:pl:Bronisław Pieracki|Bronisław Pieracki]])をワルシャワにて暗殺した。
 
しかし、1938年5月23日にOUNコノヴァーレツィが[[パヴェル・スドプラトフ]](OUNに潜入していた[[内務人民委員部|NKVD]]諜報員[[パヴェル・スドプラトフ]]によってコノヴァーレツィが暗殺されると、組織は[[アンドリーイ・メーリヌィク (革命家)|アンドリーイ・メーリヌィク]]([[:uk:Мельник Андрій Атанасович|Андрій Мельник]])の派閥と[[ステパーン・バンデーラ]]の派閥とに分裂し互いに武力闘争をおこなった。
 
[[独ソ戦]]が開始しドイツ軍がウクライナを占領すると両派とも当初は歓迎した。だが、1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは両派の指導者を逮捕し武力でこれを押さえ込もうとした。組織は地下に潜り1942年に組織された[[ウクライナ蜂起軍]](UPA)のもとに再び集結し、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しい[[パルチザン]]活動を行った。