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講道館へ一部移動など
(講道館へ一部移動など)
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::立ち姿勢から体を一挙に捨てて[[腕挫腋固]]を取ること
::[[河津掛]]
::肘以外への関節技
::柔道精神に反する行為
::[[蟹挟]](大会の程度によって禁止にも認めることもできる)
::河津掛
::蟹挟
::肘以外への関節技
::投げられた際、故意に頭から畳に突っ込んで着地やスコアを逃れる (head defence)
::投げ技の際、自ら頭から突っ込む (diving)
明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の[[嘉納健治]]によって隆盛し、戦後の柔拳興行は[[万年東一]]によって行われている。
: {{Main|#柔拳興行}}
 
=== 体育としての柔道(体育法) ===
日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」<ref>『古流柔術――その術理と知られざる秘技』寺尾正充</ref> と評される武術・柔術界の第一人者であった。
 
それと共に、教育界における教育者としての観点からも、若くして[[学習院大学]]教頭や[[東京高等師範学校]](のちの[[東京教育大学]]を経て[[筑波大学]])校長などを歴任し、[[灘中学校]]・[[灘高校]]の設立にも尽力するなど第一人者であった。
 
また体育面・日本体育における観点においても「日本体育の父」、「教育上、体育を尊重し、体育の地位の向上をせしめたる卓見と努力は、他に比較すべき人を見ない」<ref>『嘉納先生傳』横山健堂</ref> と言われるように卓越した見識を持ち、アジア初のオリンピック委員、[[大日本体育協会]]初代会長などの実績からも見られるように、嘉納は武術家・武道家としての面以外にも教育者としても卓見であり、また西洋の他の格闘技や体育・体操・スポーツへの知識、造詣も深くあった。
 
==== 体操伝習所答申 ====
 
嘉納が古流柔術の修行を修め、柔道が創始された明治初期の日本では、一刻も早く欧米列強に肩を並べ対峙できるよう近代化を推し進めることが至上命令とされ、「[[富国強兵]]」「[[殖産興業]]」というスローガンによって強い国家を構築することが重要な国策となっていった。国民の「体力の向上」が国家的課題となり、それは教育界においても、いわゆる「国民体育」の概念の下で身体鍛錬が重視され、そのための具体的な内容と方法が模索され続けた。
 
学校教育では、体育が実施されるようになり、その中心教材には欧米に倣って西洋式の体操が位置づけられた。医学・生理学に根拠を持つ体操を採用した文部省では、体操を万能とする体育観が支配的となった。
 
明治10年代頃から国内の学校教育の場への武術の正科採用を推す声が武術家を中心に出されるようになり、ついに明治16年文部省は[[体操伝習所]]に対し剣術や柔術の教育に対する利害適否を調査するよう通達した。
 
そこで行われた剣術、柔術への、実施、医学的検討、視察、調査の結果として、明治17年10月、体操伝習所は次のような結論を出した。(体操伝習所答申)
 
二術(剣術、柔術)の利とする方
# 身體の発育を助く。
# 長く體動に堪ふる力量を得しむ。
# 精神を壮快にし志氣を作興す。
# 柔惰の風恣を去りて剛壮の姿格を収めしむ。
# 不慮の危難に際して護身の基を得しむ。
 
害若くは不便とする方
# 身體の発育往々平均均一を失はん。
# 實習の際多少の危険あり。
# 身體の運動適度を得しむること難く強壮者脆弱者共に過剰に失し易し。
# 精神激し易く輙もすれば粗暴の氣風を養ふべく。
# 争闘の念志を盛にし徒らに勝を制せんとの風を成しやすし。
# 競進に似て却て非なる勝負の心を養ひがちなり。
# 演習上毎人に監督を要し一級全體一斉に授けがたし。
# 教場の坪数を要すること甚大なり。
# 柔術の演習は単に稽古着を要するのみなれども剣術は更に稽古道具を要し、且つ常に其衣類及道具を清潔に保つこと生徒の業には容易ならず。
 
その理由から
# 学校体育の正課として採用することは不適当なり。
# 慣習上行われ易き所あるを以て彼の正課の体操を怠り専ら心育のみに偏するが如き所に之れを施さば其利を収むることを得べし。
 
とされ、武術の正課体操教材化はならなかった。
 
==== 柔道一班並二其ノ教育上ノ価値 ====
 
その5年後にあたる明治22年、当時29歳であった嘉納治五郎は大日本教育会の依頼により、文部大臣の[[榎本武揚]]や在日イタリア公使らの出席を仰ぎ、「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」と題して講演を行った。
 
講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」においては、明治17年の体操伝習所答申に沿う形で構成されており、害若しくは不便とする方として挙げられた条件を一つ一つクリアーしていく形で構成されている。
 
そこでは講道館柔道を従来の(古流)柔術から更に進めた柔道勝負法(柔道護身法とも言う)、柔道体育法(柔道練体法、柔道鍛錬法とも言う)、柔道修心法の分類により、修行目的、効用、修行方法を分けて考えた上で構成された。講道館柔道では「体育、勝負(武術の真剣勝負の方法)、修心の三つの目的を持っておりまして、これを修行致しますれば体育も出来勝負の方法の練習も出来、一種の智育徳育も出来る都合になっております。」と述べて、柔道の目的として体育と勝負と修心の三つを挙げ智徳体を学べる、と説いた。
 
講道館柔道の独自性・理論的大系・教育界における影響力は、この嘉納の講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」によって公に知るところとなり、武術改め武道の教育の場における正規採用に大きな影響を与えていくことになる。
 
==== 乱取りと形の両立 ====
 
「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において、柔道体育法の効用は乱取りと形の両立で説かれる。
 
乱取りにおいては「身体の強化」や、実践者が「興味・面白み」を得られるという点、「主体性の育成」の点から価値を説く。
 
形においては、学校体育の主目的たる「身体の調和的発達」の観点、「乱取」を補完するものとして必要性を強調し、老若男女が実施可能なものとしてしつらえ、「大衆性」や「生涯性」を備えた体育法として位置づけた。
 
体育法における乱取りと形に嘉納は工夫をこらすことになる。
 
従来の乱取りは体育としての利点がある反面、初学の者が方法を誤ると運動が過激になり過ぎ危険を生じることも懸念される。そのため嘉納は、子どもの発達段階と技の難易度を考慮した乱取技の指導順序を示して、学校柔道に適した段階的指導の方法を整備していく。
 
また柔道における形はその目的から、それぞれ乱取りの形(投げの形、固めの形)、体操の形(柔の形、剛柔の形)、真剣勝負の形(極の形、講道館護身術、女子柔道護身法)、古式の形など目的用途ごとに分けられるが、嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法の目的に沿うものとして、その中から体操の形として体育法の形第一種(剛柔の形)、体育法の形第二種(柔の形)を挙げる。昭和期に入るとさらに改良を加えた「精力善用国民体育(の形)」を嘉納は考案し、学校柔道において「形」から「乱取」へという教習課程を確立していくことになる。
 
また嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法として乱捕を体操に用いる際に怪我がないために、また道場を離れた日常においても車から転げ落ちたり梯子を踏み外したり他人から害を加えられかかったりしたとき危険を避けることの出来る利益のあることとして、危険を避ける方法として種々の[[受身]]の方法論と重要性を説明している。
 
このような嘉納による学校柔道における教授内容・方法を整備・確立するための工夫の過程に共通する視点は、「易しいものから難しいものへ」ということである。それは、初学の者を対象とする学校柔道における段階的指導の観点の一環として捉えることができる。
 
==== 強・健・用 理想的体育 ====
 
嘉納は柔道の体育法の目的・優位性・効用として、「強・健・用」(強化・調和的発達・実用性)を挙げる。
 
昭和5年嘉納は「理想的体育」として次の条件・内容を述べている。
# 筋肉としても、内臓としても、身体を円満均斉に発達せしめて、なるべく危険の伴わないこと。
# 運動はいちいち意味を有し、したがって熟練がこれに伴い、かつ其の熟練が人生に用をなすものであること。
# 単独でも団体にても出来、老若男女の区別なく実行し得らるること。
# 広い場所を要せず、なるべく簡単なる設備で行い得られ、服装のごときも平素のままで行い得らるること。
# 時間を定めて行うも、随時零砕の時間を利用して行うも、人々の境遇上および便宜上自由になし得ること。
 
また柔道修行における必要な医学・生理学的根拠を学ぶ方法・場としては柔道の修行法の一つ「講義」を設け、それによって補完する必要のあることを嘉納は述べる。
 
==== 柔道修行における強度の違い ====
 
柔道修行におけるその強度の違い、真剣勝負(武術)、競技、教育目的の体育、はその修行方法、修行者を考慮して行われるべきものである。
 
武術としての真剣勝負の柔道勝負法の修行は、「柔道勝負法とは、人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕えようと思えば捕えることが出来る。又相手がその様なことを仕掛けてきた時、自分は能く之を防ぐことの出来る術の練習である。要約すると肉体上で人を制し、かつ人に制せられない術といえよう。」と嘉納は説明するものであり、急所への当身技、武器術を含む柔道の勝負法の修行方法は「たやすいものではない」と嘉納は述べる。
 
またチャンピオンシップにもとづいた競技中心の柔道においては「強い選手を育てること」に主眼が置かれる「強者のための柔道」であり、そこには弱者に対する配慮はほとんど行われない可能性があるという指摘がある。その一方で教育として行われるべき学校柔道は初学の者を対象としており、競技として行うことはできない「弱者」(例えば、子どもたち)に適した指導がなされるべきである。各々の柔道の修行目的、修行方法を見極める必要がある。
 
=== 教育・精神修養・応用としての柔道(修心法) ===
講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に3つの効用を挙げる。
#徳目の涵養
#知育
#勝負の理論の応用
 
==== 徳性を涵養する ====
嘉納は日本における古くからの高等教育の手段とされて来た武芸の精神を受け継ぐ柔道の修行によって、自ら「自国を重んじ」「自国の事物を愛し」「気風を高尚にし」「勇壮活発な性質」などの徳性を涵養することが出来るとする。また、礼に始まり礼に終わる柔道の修行は正しい礼儀作法を身に付け、かつ、自主、沈着、真摯、勇気、公正、謙譲等の諸徳目を涵養することが出来るとする。しかし、これらの徳性の涵養は、柔道の修行の固有の性質から自然に涵養することのできるものと、柔道に関係ある総ての外囲の事柄を利用して、特に徳育上の教育を施してその目的を達するものとがあり指導上留意する必要があるとした。前者は柔道修行のうち「乱取り」「形」から学び、後者は柔道修行の「講義」と「問答」の修行によって学ぶ必要性がある。
 
嘉納の述べる柔道修行から学べる徳目の例を具体的に挙げると次のようになる。
* 気風が高尚であること
* 驕奢の風を嫌うこと
* 正義を重んずること
* 道のためには艱苦をいとわず、容易に身命をなげうつ覚悟があること
* 公正なること
* 礼儀を守ること
* 信実なること
* 身体を大切にすること
* 有害な情を制止すること
* 艱苦に耐える習慣を養うこと
* 耐忍の力を強くすること
* 勇気を富ませること
* 教えを受けることと自ら考究することの関係を知らせること
* 準備すること
* その他である。
==== 智力を練る ====
嘉納は柔道の修行、柔道修心法を通じて会得を目指す智力について多くある中で一部分として主に次のように挙げる。
「観察」、「注意」、「記憶」、「推理」、「試験」、「想像」、「分類」、「言語」、「大量(新しい思想を嫌わず容れる性質と種々さまざまなことを同時に考えて混淆せしめぬように纏める力の2つ)」、「その他」となる。
==== 勝負の理論を世の百般に応用する ====
嘉納は柔道の修行について、勝負道の追求でもあり、勝負に勝つことが重要な目標になるともする。その勝負に勝つための理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できる物であるとする。その応用の部分は修心法の中でも随分面白くもあり有益であると嘉納は説く。嘉納の挙げる勝負の理論の応用の例について要約すると次のようになる。
自他の関係を見ること 迅速な判断 先を取れ(先の先、先、後の先) 熟慮断行 先を取られた時のなすべき手段 我を安きに置き、相手を危うきに置くこと 止まることを知ること 制御術 その他 等である。また、練習の必要 駆け引き 彼我の接触 眼の着けどころ おのれを捨てること 注意、観察、工夫 最善を尽くす 進退の仕方 あらゆる機会を利用する 格外の力に応じる時の心得 業に掛った時の心得なども嘉納の発言・著作から伺い知ることが出来る。
嘉納はこれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなす上で大きな利益の有るものであるとした。
最後に最も肝要なる心得の一つとして「勝ってその勝ちに驕ることなく、負けてその負けに屈することなく、安きに在って油断することなく、危うきにあって恐るることなく、唯々一筋の道を踏み行け」の教えを強調して、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。
<ref>『武道十五講』</ref>
 
==== フランスの柔道教育の応用 ====
そこには[[新渡戸稲造]]が『[[武士道]]』において挙げる徳目の、「礼儀」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「義」「克己」「誠実・信実」「仁・惻隠の情」「名誉」「忠義」と通ずるものであることが分かる。
また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことが出来る。
 
==== 残心 ====
[[残心]](ざんしん)とは日本の武術、武道および芸道において用いられる言葉であり、武術、武道としての柔道における残心は、「相手を投げた後、相手の反撃に備える態度と心構え」<ref>『和英対照柔道用語小事典』</ref> 等、技を決めた後も心身ともに油断をしないことを言う。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。
投げ技で崩れず態勢を保つ、立技から寝技へのスムーズな移行、相手の当身を意識する、当て身を含む形の技法においてはとどめの当て身を入れる動作をする等も柔道における残心となる。なお、柔道の投げ技には捨て身技も含まれており、寝技の攻防技法も含まれ、形の技法の中には居取り技も含まれるため、常に立ち姿勢で残心を取る訳ではないことを留意する必要もある。
講道館柔道の母体の一つになっている天神真楊流においては、技を行う前の心構えとして「前心」、技の挙動中の心の動きとして「通心」、挙動を終わって我が目を相手に注ぐこととして「残心」を説き、前心、通心、残心まで気を抜いてはいけないことを説いている。<ref>『天神真楊流柔術極意教授図解』</ref><ref>『柔道大事典』</ref>
また、残心は、茶道や日本舞踊など日本の芸道にも用いられるように、柔道における礼法にも通じる。何があっても興奮せず、油断せず、ゆとりを持ちながら周りを意識し、感情を抑えて冷静な態度・平常心を保ち、謙虚に勝敗を受けとめ、相手の気持ちを考えることができる。実戦から生まれたこのコンセプトは、確実なことがないという覚悟と同時に、倒した敵に対する懺悔と敬意を表す。<ref>柔道チャンネル 『柔道用語辞典』</ref>
安全面において:全日本柔道連盟主催の安全指導講習において、体育としての指導、初心者指導における柔道の「受け身」を指導する際、安全に受け身が取れるために、安全面でのキーワードとして
# 危険な時は自ら倒れる「潔さ」
# 相手を投げる時は倒れない「残身(心)」
# 互いの柔道衣を引っ張り合ってバランスを保つ「命綱」
の大切さを強調している。
 
=== 娯楽や美育、幅広い目的の柔道(慰心法) ===
嘉納治五郎は1889 (明治22) 年に大日本教育会において文部大臣らを招き、「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」と題した講演を行い、柔道の目的として体育、勝負、修心を挙げて、「此學科ヲ全國ノ教育ノ科目ノ中ニ入レマシタナラバ目下教育上ノ缺点ヲ補フコトノ出来ル」と述べ、全国の教育機関、とりわけ中学校への採用と国民への普及を主張していく。
 
こうした嘉納の活動や剣道界の尽力により、1911 (明治44) 年に撃剣・柔術が正課採用を果し、柔道は日本の中学校における正科になる。その後、嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて発表し、さらに新しい要素(運動の楽しさ、乱取、試合、そして形を見る楽しみ、芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。
 
嘉納は当時国内において採用されていた西洋式の普通体操に面白みが無く学校卒業後に長く続けられないことに関する当時の教育家からの不満と、柔道の様々な利益、逆に競技運動は面白く長く続けられるという社会的背景から慰心法の新しい発想を生み出した。
 
1913(大正2)年、嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し、又其理論を講究するものにして、身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり、精神を修養することよりいふときは修心法となり、娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり、攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し、柔道は「柔の理を原理とし、身体鍛錬には体育法、精神修養には修心法、娯楽には「慰心法」、そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。
 
「慰心法」の内容は「慰心法とは柔道を娯楽として修行する場合をいふ。眼の色を楽み耳の音を楽むが如く、筋肉も亦運動して快楽を感ずるものにして、人が他の人と筋肉を使用して勝負を決する如きは更に大なる快楽のこれに伴ふこと論を侯たざるなり、且自ら其の快楽を感ずるのみならず其勝負の仕方、業の巧拙等を味ひてこれを楽み得る素養ある人は、他人の勝負を見ても快樂を感ずるはまた當然のことなり。殊に名人の試合及起倒流扱心流の形、講道館五の形、柔の形の如きものに至りては、眞に勝負の形たる性質を離れ自ら美的情操を起さしむるものにして、其の見る者に快楽を感ぜしむるや大なり。かく單純なる筋肉の快楽より高尚なる美的情操に至るまで快楽を得るを目的として修行するは、これを慰心法として柔道を修行すといふ」と述べ、
 
# 運動や勝負の楽しみ
# 他人の勝負や技の巧拙を見る楽しみ
# 他人の形を見る楽しみ
 
などを例に挙げた。
 
また、修行に際しては「柔道はかく四様の着眼点より修行するを得るものなれど、實際に於てはこれを兼ね修むるを得策とす・・・(中略)・・・慰心法として修むるときも亦同様にして、実益の伴はざる娯楽は人事多端の世に於て多くこれを貧ることを得ざるものなれど、種々の實益を伴ふ柔道の娯楽は、これを享くること多きも益を得ることありて毫も其弊を見ず」と述べ、慰心法以外の目的を兼ねて練習を行うことで楽しみながらも体育や勝負、修心上の利益を得ることが出来ると主張した。
 
しかしその後、嘉納の言説の中から「慰心法」の名称は見られなくなり、再び「体育法」「勝負法」「修心法」を中心としたものになっていく。それでも1915年3月の「立功の基礎と柔道の修行」の中に見られるように体育法としては
#運動の種類が多く老若男女に適する
#多目的で興味が尽きない
#実生活に役立つ
といった3つの利点を挙げた。
 
嘉納は1について「柔道は他の運動に比して最も多くの目的を有し、従って先から先へと尽きぬ興味がある。一体育そのものより外に目的のない運動やその目的の明かでない運動は、興味を感じないものである。興味のない運動は、人に持績して行はせることも出来ず、熱心に練習させることも出来ず、体育の方法として価値の少ないものである。然るに柔道は身体を強健にする外に、己を護り人に勝つことを目的とし、五體を自由自在に動作させることを目的とし、精神の摩礪を目的として居る為に、競争の興味、業の熟練の興味、人格向上の興味、美的感情の養成、その他言ひ蓋せぬ程多様の興味を喚起し知らず識らずの間に体育上の功果を収めることが出来る」と述べ、競技の楽しさを魅力の1つに挙げている。このように「慰心法」の名称は消失するが、その内容は柔道奨励の一手段として位置づけられていく。
 
しかし明治後期から対校試合の隆盛と共に試合に対する学生の関心は高まる一方で、学生間の紛擾や学校間の対立などが生じることになる。やがて大正後期になると高等専門学校柔道大会が活況を呈し、学生が母校の名誉のために過熱し、様々な弊害が現れてくることになる。それらに対し、嘉納は慰心法に代わり、状況の改善策を講じ、柔道を本来のあり方へ戻そうと腐心していくことになる。
 
時代は下り第二次大戦後には軍事的色彩が強しとして一時禁止されていた柔道であったが、1949(昭和24)年には全日本柔道連盟が結成され、翌年1950年には学校柔道も解禁される。
 
講道館の三代目館長となった[[嘉納履正]]は著書『伸び行く柔道一戦後八年の歩み一』において「スポーツとしての柔道」と題し「快適なスポーツとして柔道の練習方法を考へる場合、必ずしも鍛錬主義が全面的によいとは言へず、 教育的な見地からその対照によっては再考すべき点もあるであらう。講道館柔道を一部では、旧弊な非スポーツ的なものであるといふ様な誤解もあるが、遠く明治四十三年に嘉納治五郎の書いた柔道の説明の内に、 柔道は・・・(中略) ・・- 娯楽を享受する事より云ふ時は慰心法となり・・・(中略)・・・とある様に娯楽としての柔道の面も唱ってゐるので、決して講道館柔道は単なる武道的な厳しい面を強調するものでなく、心を慰むるものとして、則ちスポーツの字義通りの内容をも具備するものである」と述べ、これまでの柔道は勝負や精神面が強調され過ぎたが、娯楽の意義も今後大切であると説いている。柔道「慰心法」の存在と意義を再認識する時ともいえる。<ref>桐生習作『柔道「慰心法」の導入と嘉納治五郎の思想』</ref>
 
== 高専柔道、七帝柔道 ==
 
に大別することが出来る。
 
== 柔道における「柔の理」の背景・意味 ==
講道館柔道は、戦国時代から江戸時代にかけて興り隆盛を極めた古流柔術を母体とするものであり、講道館柔道の「柔」の名称も、柔術から採ったものである。柔術の名称由来については明確な詳細は定かではないとされるが、通説では「三略」の文中、「柔能制剛」の「柔」を意味するといわれている。柔術から発展した柔道の術技も多くは柔の理と言えるとされる。
 
講道館の草創時代、勝負の理論は古来の教えを受け継いだ傾向が強く、柔の理に総括されていた。
嘉納治五郎は「柔の理とは全て相手の力に順応してその力を利用し勝ちを制する理合である」とし、「柔の理は全ての柔道の勝負に通じ働いている大切な原理である」とも説いている。
 
柔道の基になった起倒流や関口流や楊心流など古流柔術の主要な流派の伝書類において散見される「柔」という語には「柔・剛などの相対する気が和合し、どちらにも偏りのない、安定、円満な状態」を意味しているという点において、実際に『三略』やそれに影響を与えたとされる『老子』の「柔の思想」との共通性を認めることが出来るとされる<ref>『嘉納柔道思想の継承と変容』永木耕介p.107</ref>。
 
=== 『易経』における柔 ===
 
中国古典に於いて、柔と剛を初めて唱えたのは『[[易経]]』であるとされる。「天は尊く地は卑くして乾坤定まる。動静常有り、剛柔断る。是故剛柔相摩し、八卦うごかす」と記され、自然界は陰と陽、柔と剛の対立と転化により成り立つと述べられている。よって柔は剛を兼ねて初めて柔徳を発揮するという、柔剛兼備の「柔」であった<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明">「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明</ref>。
 
=== 『老子』における柔 ===
『[[三略]]』に影響を与えたと言われる『[[老子]]』において「柔の思想」は、
「天下の至柔は、天下の至堅を馳騁し、無有は無間に入る」
 
「小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う」
 
「人の生くるや柔弱、其の死するや堅強。万物草木の生くるや柔脆、其の死するや枯槁。故に、堅強なる者は死の徒。柔弱なる者は生の徒。是を以て、兵強からば則ち勝たず、木強からば則ち共さる。強大は下に処り、柔強は上に処る。」
 
「天下に水より柔弱なるは莫し。而も堅強をせ攻むる者、之に能く勝る莫きは、其の以て之を易うる無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下、知らざるを莫くして、能く行う莫し。」
 
などに見られるように、[[老子]]はたびたび水をひきあいに出し水の「流動性、順応性、変幻自在な動き」が、堅強を崩せる要素であると指摘している<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明"/>。
 
また「「道」は万物を生み出すのみならず、すべてを受け入れる。「道」の形容詞が「柔」(或いは弱)とすれば、「剛、強、堅」などの形を成すものは全て「柔」から生まれて「柔」に帰ることになる。「柔」は全ての物を包含するのである」<ref name="ReferenceE">「柔の意味に関する研究」籔根敏和、岡田修一、山崎俊輔、永木耕介、猪熊真</ref> と解釈もされる。
 
=== 『三略』における柔 ===
中国の兵法書である『[[三略]]』においては、「柔能く剛を制し、弱能く強を制す。柔は徳なり剛は賊なり、弱は人の助くるところ、強は怨の攻むるところ。柔も設くるところあり、剛も施すところあり。弱も用うるところ有り、強も加うるところ有り。此の四者を兼ね、而して其の宜しきを制す。」と記され、「柔」は他者を包み育む徳により剛を制せるとしながらも、兵法論としては柔弱のみではなく、柔剛強弱を兼備して変幻自在に対処せよと述べている。
 
中国古典に於ける「柔」とは、もともと自然界の法則に基づく、剛を含んだ絶対の「柔」であった。一方老子や三略の「柔能制剛」所の「柔」は、水の性質である。「流動性、順応性、変幻自在な動き」をいったものであり、また争わざる徳も意味していた<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明"/>。
 
=== 古流柔術における柔の理 ===
 
古流柔術の伝書においては、柔の理はしばしば歌などに託されたりして抽象的に表現されている。
例えば楊心流では「降るを見れば積もらぬさきに打ち払え、風ある松に雪折れはなし」「乗り得ては波に揺らるる蜑小舟、ただ浦々の風にまかせて」といい、起倒流では「我が力をすて敵の力をもって勝つ」と説き、天神真楊流では「身体をして心の欲するところに従順ならしむ」と説いている<ref>『柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯』(原作・橋本一郎 画・作麻正明)</ref>。
 
正徳年間(1711-1715年)に記された日夏繁高による『本朝武芸小伝』においては「柔にして敵と争わず。しばしば勝たむ事を求めず。虚静を要とし、物をとがめず、物にふれ動かず、事あれば沈みて浮かばず、沈を感じると云ふ」とされている<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明"/>。
 
また「敵の動きに先立つ気を読み、気のコントロールによって敵と力を合わせず、敵の気の外れの虚をついて制する」という様な、力の衝突のない滑らかな動き様を形容した言葉であり、さちに本体そのものが現す安定感や無形さを形容した言葉であると考えられた。従って「柔能制剛」とは、「気を扱う者が、力の勝負をする者に勝つ」という意味となるとされる<ref name="ReferenceE"/>。
 
これらの古流柔術における「柔の理」は、嘉納の言う「柔の理とは、相手が力を用いて攻撃し来る場合我はこれに反抗せず、柔に対手の力に順応して動作し、これを利用して勝ちを制する理合」と合致するとされる<ref name="「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明"/>。
 
== 「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展 ==
 
講道館の草創時代、勝負の理論は古来の教えを受け継いだ傾向が強く、柔の理に総括されていた。しかし柔の理をもって柔術や柔道の根本原理を考えていた嘉納も、攻撃防御の実際において、柔の理以外で説明しなくてはならない多くの事例にぶつかることになる。曰く、
 
「たとえば立って居る処を他人が後ろから抱きついたと仮定せよ。此の時厳格なる柔の理では逃れることは出来ぬ。対手の力に順応して動作する途はない。本当に抱きしめられる前ならば体を低く下げて外す仕方もあるけれども一旦抱きしめられた以上はその力に反抗して外すより別に仕方はない。」
 
「要するに反対すれば力が少ないから負けるが、順応して退けば向こうの体が崩れて力が減ずるから勝てる。柔能く剛を制すという理屈になる。ところが深く考えてみると、いつでも柔能制剛の理屈では説明は出来ない。(中略)勝負の時には相手を蹴るということがある。この場合は柔能く剛を制するとはいえない。これは積極的にある方向に力を働かせて向こうの急所を蹴って相手を殺すとか傷つけるとかいうことになる。ある手で突くのも同様である。刀で斬るのも同様である。棒で突くのも同様である。これも柔能く剛を制するということではない。こう考えてみると、柔術という名称は攻撃防御の方法のただある場合を名状した呼称である。」
 
つまり、「相手の力を利用して相手を制する」という「柔の理・柔能く剛を制す」だけでは全ての場面を説明できず、いわば状況に応じた臨機応変な「主体的・積極的な力の発揮」も必要であることから、加えて攻撃防御の際の精神上の働きから考えてみても、単に柔の理の応用だけでは困難であると感じた嘉納は明治30年代に至って柔の理のみに依らぬ柔道を解説するようになる。
 
「勝負においてはいかなる場合でも精神を込め最上の手段を尽くすべきである。いかなる技でもまず目標を立て投げる、固める、当てるという目的を遂げるためには己の精神力、身体の力を最も効果的に働かせる必要がある。心身の力、すなわち精力を最善に活用することである。今日精力善用と言っているがこれが柔道の技術原理である。」と言っている。嘉納はより普遍的な「力の用い方」を再定義した結果、「心身の力を最も有効に活用する」とした。
 
そして心身の力を精力の二文字に詰め、「精力最有効使用」「精力最善活用」などと表現されて、「精力善用」へと至る。
 
嘉納は柔道の意味を単に心身の力を有効に攻撃防御勝負に使うだけでなく、更に広く人間万事の事柄に応用、心身の力を最も有効に発揮する道のあるところにも柔道の名称を用いるようになる。精神と身体の力を合理的に活用させそれを日常生活に応用させることが精力善用としたのである。
 
またそれまでも明治22年の「教育上ノ価値」の講演において嘉納が示した「勝負の理論を世の百般の事に応用する」の中の「自他の関係を見るべし」に見られていたような柔の理における融和の原理から「自他共栄」の理論の確立に至る。
 
嘉納は1922年の「講道館文化会」の創立における「講道館文化会」綱領において「精力善用」「自他共栄」を発表する。
 
#精力の最善活用は自己完成の要決なり。
#自己完成は他の完成を助くることによって成就す。
#自他完成は人類共栄の基なり。
 
「精力善用」「自他共栄」の二大原理が、単なる攻撃防御の方法の原理ということから、人間のあらゆる行為の原理へと、大きく拡大したことによって、柔道の意味内容も大きく拡大することになる。
 
ここに至り、精力最善活用によって自己を完成し(個人の原理)、この個人の完成が直ちに他の完成を助け、自体一体となって共栄する自他共栄(社会の原理)によって人類の幸福を求めたのである。
 
== 戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾 ==