「古田昌幸」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
29行目:
[[九州学院中学校・高等学校|九州学院高校]]では{{by|1951年}}春季九州大会県予選準決勝に進むが、[[熊本県立熊本農業高等学校|熊本農]]に敗退。[[立教大学]]に進学。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では、{{by|1953年}}春季リーグでエース小島訓一(のち[[東京ガス硬式野球部|東京ガス]])を擁し優勝を経験。同年の[[全日本大学野球選手権大会]]も、決勝で[[穴吹義雄]]らのいた[[中央大学硬式野球部|中大]]を降し初優勝を飾るが、その後は[[明治大学硬式野球部|明大]]、[[早稲田大学野球部|早大]]の二強時代となり優勝には届かなかった。リーグ通算89試合に出場し、320打数70安打、打率.219、0本塁打、26打点。大学同期に[[保坂幸永]]、[[大沢啓二|大沢昌芳]]、1年下に[[東実]]、[[堀本律雄]]、[[矢頭高雄]]、2年下には後に「立教三羽烏」と呼ばれる[[長嶋茂雄]]、[[杉浦忠]]、[[本屋敷錦吾]]がいた。
 
大学卒業後は[[熊谷組]]に入社し、[[二塁手]]として活躍。{{by|1956年}}から13年連続で[[都市対抗野球大会]]に出場し、3度の優勝に貢献。{{by|1957年}}に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で開催された第3回世界野球大会に日本代表として出場し、決勝の[[カナダ]]戦で同点の延長13回表に決勝点となる適時打を打ち日本の初優勝に貢献した<ref>『朝日新聞』1957年9月19日付夕刊 (3版、3面)</ref>。{{by|1959年}}の第3回[[1959年アジア野球選手権大会|アジア野球選手権大会]]でも日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。{{by|1960年}}9月には全日本社会人野球選抜チームの一員としてハワイに遠征。{{by|1964年}}10月には[[1964年東京オリンピックの野球競技|東京五輪デモンストレーションゲーム]]として開催された、社会人野球選抜と米国大学選抜との試合に代表として選出された。
 
{{by|1966年}}の[[第37回都市対抗野球大会]]ではプレイングマネージャーとして活躍。[[東芝硬式野球部|東芝]]との準々決勝では古田自身が10回裏に逆転サヨナラ3ラン[[本塁打]]を放つ<ref>『朝日新聞』1966年7月31日付朝刊 (12版、13面)</ref> 。準決勝では[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]の[[平松政次]]の好投に苦しむが9回裏逆転サヨナラ勝ち。決勝では[[住友金属野球団|住友金属]]の[[神部年男]]([[日本製鉄広畑硬式野球部|富士製鐵広畑]]から補強)を打ち込み10回裏サヨナラ勝ちという劇的な優勝を飾る。古田はこの大会の[[橋戸賞]]を受賞し<ref>『朝日新聞』1966年8月2日付朝刊 (12版、13面)</ref>、また10年連続出場表彰を受ける。都市対抗野球大会の出場は通算16回で、うち10回は監督兼任であった。