「水野勝成」の版間の差分

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=== 江戸時代 ===
* 慶安3年([[1650年]])5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている<ref>『福山城築城三百七十年記念誌』『福山城築城三百七十年記念特別展 水野勝成とその時代 天下統一の流れと水野氏の動向』 </ref>。
* 水野時代の福山藩は、表石高10万石なのに対し、実質15万石とか30万石といわれるように大変豊かだった。しかし、[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部氏]]時代の福山藩は、水野時代の七割の領地しか与えられておらず、表石高10万石なのに対して、実質も10万石であった。そのためどうしても水野時代よりも税金を高くしなくてはならず、水野氏の治世を懐かしむ領民の扱いに苦慮する。そこで水野氏の治世を辱めるべく「五霊鬼」や「お糸伝説」といったデマを流す。後年、阿部氏の治世が終わると、福山市民はこれらの悪評を払拭して、水野勝成を福山開祖として慕うようになる。
*[[宮本武蔵]]が大坂夏の陣に水野勝成(三河刈谷3万石)の客将としてその子・勝重(水野勝俊)付で出陣したのが縁となり、大坂の陣後に、水野の家臣である、中川志摩之助の子息、[[中川造酒之助]]は、弟の九郎太郎と共に武蔵の養子となる。元和3年から4年(1617年から1618年)頃、造酒之助は、武蔵の推挙により播州姫路城主・本多忠政の嫡男本多忠刻の小姓として出仕する。