「清沢忠彦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
34行目:
卒業後は慶應義塾大学に進学。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では[[立教大学硬式野球部|立大]]、[[早稲田大学野球部|早大]]の後塵を拝し優勝には届かなかった。早大と優勝を争った[[1960年]]秋季リーグの早慶六連戦では、まず[[早慶戦]]の1回戦、3回戦に先発するがいずれも敗戦投手となる。優勝決定戦ではリリーフに回り第2戦、第3戦に登板した。リーグ通算63試合20勝14敗、防御率1.48、奪三振214。大学同期に角谷隆([[サッポロビール|日本ビール]])、三浦清([[JX-ENEOS野球部|日本石油]]-[[大昭和製紙硬式野球部|大昭和製紙]])の両投手、[[遊撃手]]の[[安藤統男]]らがいる。
 
大学卒業後は[[住友金属野球団|住友金属]]に入社。[[1964年]]10月には[[1964年東京オリンピックの野球競技|東京五輪デモンストレーションゲーム]]として開催された、社会人野球選抜と米国大学選抜との試合に登板した。[[1965年]]の[[第36回都市対抗野球大会|都市対抗]]では決勝に進出、[[NTT西日本硬式野球部|電電近畿]]に敗退し準優勝にとどまるが[[久慈賞]]を獲得<ref name=tositaikou>「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年</ref>。翌[[1966年]]の[[第36回都市対抗野球大会|都市対抗]]でも2勝を挙げ決勝に進む。しかし延長10回の熱戦で[[熊谷組野球部|熊谷組]]にサヨナラ負け、2年連続準優勝に終わる。この大会でも久慈賞を獲得した<ref name=tositaikou />。同年の[[IBAFワールドカップ|アマチュア野球世界選手権]]日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。引退後は住友金属野球団監督に就任。
 
[[1971年]]から高校野球甲子園大会の審判員を19年間務める。