「ペトロニーユ・ダキテーヌ」の版間の差分

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アリックス(Alix)、オック語でエリット(Aelith)と様々な名で呼ばれた。結婚後はアリックスと呼ばれた一方で、ペトロニーユは幼年時代の名称とみられる。
 
彼女は姉アリエノールに連れられてフランス宮廷へやってきて、若く美しかったペトロニーユは壮年のヴェルマンドワ伯ラウル1世と出会ったい、見初めて恋愛関係になるしかし彼は既に妻エレオノール・ド・シャンパーニュがおり、フランス王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]のいとこ従兄にあたった。彼はアリエノールによりを拒んでと離婚し、ペトロニーユと結婚した。

しかし、ラウルの妻の兄、ブロワ伯[[ティボー4世 (ブロワ伯)|ティボー4世]]が法皇に事実を陳情したため、ラウル1世とペトロニーユの2人と、ラウルと先妻の[[婚姻の無効]]を宣言したサンスの司教は[[ローマ教皇]]によって破門された。教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は破門の取り下げを約束したが、1143年に約束を撤回した。

フランス王家とブロワ家の間で戦闘が起こり、ルイ7世はヴィトリー=ル=フランソワの町を燃やした。最終的に教皇が崩御し、彼の後継者[[ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス2世]]はランス公会議で破門を解除した。しかし、ペトロニーユとラウルは離婚し、翌年にラウルは再婚した。

ペトロニーユはフランス宮廷の一員であり続け、夫[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]に幽閉されていた姉アリエノールを定期的に訪問していた。ヘンリー2世が死ぬとアリエノールは解放され、ペトロニーユはフランス帰国を計画した。しかし、1189年以後のペトロニーユの記録が不足する。ペトロニーユはイングランドからフランスへ戻る旅の途上で熱を出し、港に到着する前、1190年代初めに亡くなったと信じられている。
 
== 子女 ==