「メノルカ島侵攻」の版間の差分

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== 奪還のための作戦 ==
1779年に行われた[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル奪還作戦]]はうまく行かず、スペインの軍事指導者達は1780年末までに、ジブラルタルを長期間包囲することと並行して別の作戦を始める必要があるという考えを受け入れていた。それ故にメノルカ島侵攻作戦は1781年の初期数か月で立案された。立案者はクリヨン公爵ドン・ルイス・ベルトン・デ・ロス・ブラトス(フランス人で「恐怖を知らない男」ルイ・デス・バルベ・ド・ベルトン・ド・クリヨンの子孫)だった。クリヨンはスペインの陸軍大臣で外務大臣でもあるフロリダブランカ伯爵[[ホセ・モニーノ・イ・レドンド]]と共に働いていたが、この二人の関係は幾らか歪みを生じており、クリヨンはおそらく考慮しておくべきほどの忠告を容れなかった。
 
== 侵略艦隊 ==
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1782年2月22日付けスペインの「ハセタ・デ・マドリッド」紙はスペインの損失を戦死184名、負傷380名と推計している。包囲戦終了時の「ロンドン・ガゼット」紙の記事では、イギリス守備隊の59名が戦死していた。149名の負傷兵を含む2,481名の軍属が降伏したことになるが、多くの者が壊血病で死亡したことは無視されているか、あるいは守備隊の総勢力について当初発表したものにかなり誇張された数字が使われていたかである。降伏後に砦から出てきた者の中には43名の文民労働者、154名の妻と212人の子供達もいた<ref name="lg0382"/>。砦自体はスペイン軍参謀の間で検討された後、簡単には修復できないように破壊された。クリヨンが意図した類の急襲では奪取できず、スペインに対抗して使うこともできないようになった。
 
クリヨン公爵はこの成功に続いてマオー公爵の称号を与えられ、新たに[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル攻略]]の任務を与えられた。クリヨンはそこで砦を襲う大胆な作戦を始めた。ジェイムズ・マリー中将は、ウィリアム・ドレイパーの告発により、1782年11月に軍法会議に掛けられた。結局マリーは2つの罪状でのみ有罪とされた(そのうち重大なものはその副官を見下すような命令を発したことであり、それが1月にドレイパーを解任する引き金になっていた)。1783年1月、マリーは譴責処分の判決を受け、その後直ぐに国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]直の仲介で、法廷でドレイパーが発した言葉に対する謝罪が行われた。そうでもしなければ決闘になっていたかもしれない<ref>Anderson, William [http://books.google.com/books?id=37QEAAAAIAAJ&pg=PA130&lpg=PA130 ''The Scottish Nation'' (vol. 2 page 130)] Edinburgh, Fullarton (1862), via Google Books — accessed 2007-12-17</ref>。2月にマリーは大将に昇進したが、包囲戦中に60歳の誕生日を過ぎていたので、実務に戻ることはなかった。ただし、マリーは1789年に第21フュージリア連隊の連隊長になった<ref>[http://www.oxforddnb.com/view/article/19619?docPos=6 Dictionary of National Biography entry] – subscription, accessed 2007-12-16</ref>。
 
イギリスは[[フランス革命戦争]]中の1798年にメノルカ島を再占領したが、1802年の[[アミアンの和約]]締結後にスペインに恒久的に返還した。