「富永恭次」の版間の差分

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富永は人心掌握術として、特に搭乗員を大げさに称賛したり、会食に誘ったり、肩を抱いたり握手したりとさかんに[[スキンシップ]]をおこなった<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.672}}</ref>。最高司令官からの称賛を素直に喜ぶ者は多く、搭乗員の中では富永の印象は悪いものではなく人望もあったという<ref>{{Harvnb|現代読本④|1956|p=246}}</ref>。富永が将兵からの人望が厚かった一因としては、戦場での勇敢さもあげられている。敵機による空襲のさいには自ら[[高射砲]]陣地に乗り込んで、陣頭指揮をとったりしていたが<ref>{{Harvnb|額田坦|1977|p=159}}</ref><ref>{{Harvnb|高橋秀治|2014|p=17}}</ref>、激しい空襲のなかで、膝をつく姿勢をとることはあっても、伏せることはまったくなかったという。そして、空襲が終わるとすぐに自動車に飛び乗って、被害状況を直接視察していた。空戦や高射砲射撃によって敵機を撃墜したなどの活躍を自ら目にしたり、聞きつけたりすると、富永自ら将兵を呼んで[[特進]]を申し渡したりすることもあった。10月末に[[多号作戦]]で、飛行第200戦隊(通称「皇戦隊」)の[[吉良勝秋]]曹長は、僚機の7機の[[四式戦闘機]]「疾風」と共に輸送船団を護衛していたが、途中で[[酸素ボンベ]]が破裂してしまったため高度を下げると、そこで船団を攻撃に来た「[[P-38 (航空機)|P-38]]」10数機と鉢合わせになり、吉良機は単機で10数機の「P-38」から船団を護ることとなった。しかし、経験豊富な吉良は、「P-38」が高空では優速で手強いが、低空では旋回性能が劣るために戦いやすいことを熟知しており、低空の空戦に持ち込んで2機を返り討ちにして、見事に船団を護りきった。富永は輸送船団に乗船していた部隊からこの報告を聞くや、すぐに吉良を司令部に呼んで自ら吉良と面談し「船団前で、敵10数機と単機よく戦い、2機を撃墜、友軍の士気を高めること大であった。吉良、よくやった。只今より准尉に進級させる」と熱く語りかけると、すぐさま青鉛筆で「赫々たる武勲を賞し、特に准尉に進級せしむ」という特進状を書いた。富永から直接称賛された吉良は非常に栄誉と感じたという<ref>{{Harvnb|日本雄飛会|1967|p=186}}</ref>。このように、富永は将兵から慕われており、搭乗員のなかには富永と握手をしただけで感涙にむせぶ者もいた<ref>{{Harvnb|新藤常右衛門|1988|p=192}}</ref>。
 
搭乗員や一般将兵には慕われていた富永であったが、一方で、参謀や高級士官には「幕僚統帥を絶対にやらぬ」との方針もあって非常に厳しく接しており、ときには鞭をふるって参謀を殴打することもあったという。そのため、富永と参謀間は融和を欠いており、司令部内の空気は陰鬱を極めていた<ref>{{Harvnb|秦・上|1995a|p=313}}</ref>。ただし、当時第4航空司令部で取材をしていた[[従軍記者|報道班員]]の新聞記者らによれば、第4航空軍の参謀には一種の思い上がりと特権意識があり、地上部隊より優遇されていることについての甘えが見られたという<ref>{{Harvnb|秘録大東亜戦史④|1953|p=234}}</ref>。搭乗員や将兵の武勇伝を好んだ富永はそのような参謀たちには厳しかったが、レイテ湾の総攻撃で全滅した跳飛爆撃機部隊の飛行第3戦隊の戦果を確認するため、自ら[[一〇〇式司令部偵察機]]を操縦して偵察に出撃し未帰還となった参謀の[[石川康知]]中佐に対しては、「高潔、慧敏、春風人に接して内秋霜の気節を包み、航空界稀に見る逸材」などと石川を称賛する文面を富永自らで考えた個人感状を授与している<ref>{{Harvnb|秦・上|1995a|p=323}}</ref>。
 
また、富永は、第4航空軍司令拝命時に陸軍中央から期待されていたとおり、地上軍との連携を重視していた。そのため、第2飛行師団飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機の一部を通常作戦から外して、レイテ島[[オルモック]]付近に展開する地上部隊に対する補給物資の空輸に使用していた。富永はオルモック山中を彷徨っている地上軍の士気を鼓舞するためにも、物資の空輸と友軍陣地上空での空中投下は絶対に必要とこの空輸作戦に強い拘りを持っていた。そのため、この任務についた第75戦隊には気を使っており、戦隊長の土井勤少佐が作戦の上申に出頭したときには、上機嫌で迎えて、戦隊の搭乗員への贈り物として[[清酒]]1ダースを贈り、その後自ら詳細な作戦図を土井に示して、物資の投下点などを説明したという<ref>{{Harvnb|土井勤|2001|p=124}}</ref>。この空輸作戦は第4航空軍直轄として行ったため、九九式双軽爆撃機は第2飛行師団の指揮下を離れ、師団の攻撃力が低下しており、師団長の木下は、一時的にでも九九式双軽爆撃機を師団の指揮下に戻して戦闘任務につかせたいと富永に上申し続けたが、富永は苦境にある地上部隊のことを慮り、空地協同の同義を重視して、木下の上申を却下した<ref>{{Harvnb|生田惇|1977|p=92}}</ref>。しかし、1944年11月24日から再度第4航空軍残存兵力をもって第二次総攻撃を行うこととなったので、富永は、10数機による空輸を完了させたのち、九九式双軽爆撃機の師団復帰を認めた。しかし、功を焦る木下は、富永の命令を守らず、空輸任務をおこなうことなく九九式双軽爆撃機をタクロバン飛行場攻撃に投入し、1機が未帰還となった。このことを、現地の[[バコロド]]基地に進出していた参謀長の寺田から聞いた富永は激怒し、命令違反を犯したとして即座に木下の師団長としての職務を停止し、参謀長の寺田にそのまま師団の指揮をとるよう命じた。富永は木下を前線のネグロス島からマニラに呼びつけると、申し開きを聞くこと無く[[憲兵]]に拘束させて、「貴様は解任だ」と言い放ったという<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=285}}</ref>。本来、天皇による親補職である師団長は、軍司令官といえども職務の停止や解任を行うことができなかったが、この騒ぎを聞きつけた[[南方軍]]は、これ以上の混乱を避けるために、富永の意向通り、木下の更迭と寺田の師団長就任を命じた。寺田の後任の参謀長には[[隈部正美]]少将が補任された<ref>{{Harvnb|生田惇|1977|p=92}}</ref>。この人事は、元は木下の命令違反と富永の地上部隊への配慮が発端ではあるが、感情に走って、戦況を顧みない現地での処断は[[私刑]]に等しいものであり、この後も富永の感情のブレーキが効かない采配が続くことになっていく<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=285}}</ref>。