「神武東征」の版間の差分

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*[[安本美典]]によれば、古代一代平均在位約10年で考えていけば、[[天照大御神]]の活躍した時代は230年~250年頃、[[神武天皇]]の活躍した時代は280年~300年頃になると言う<ref>[http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu2.htm]</ref><ref>[http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu1.htm]</ref>。
*[[宝賀寿男]]は諸外国の王族の平均的な在位年数と生物学的な寿命から、古代天皇の在位年数を一代平均10年とするのは異常な数値であるとし、平均25年の説を唱えている。また古代天皇や諸外国の王族の在位年数はX倍年暦が使用されていると考え、神武天皇の在位を175年~194年であるとしている<ref>宝賀寿男「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/yasumoto/yasumt1.html邪馬台国東遷はなかった -安本美典氏の邪馬台国論批判-]」『季刊/古代史の海』第20号、2000年。</ref><ref>宝賀寿男「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/yamasho/yhanro1.htm 安本美典氏からの批判に対するお応え(説明・反論・反批判)]」『古樹紀之房間』、2017年。</ref>。
==== 21世紀になって出てきた説(肯定説) ====
* 『[[新唐書]](中国[[正史]])』では、初主「[[天之御中主神|天御中主]]」に始まり、第58代「[[光孝天皇]]」までが記載されているが、[[遷都]]については、[[唐]]代に行われた[[平城京]](710年)遷都・[[平安京]](794年)遷都が記述されていない。しかし、「[[神武天皇]]」の際の「居筑紫城→徙治大和州。」は記載されている。わが国にとって、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は大事業であり、歴史的事実であるが、それ以上に、「九州」から「畿内」に遷都したことを一大事業として、中国側が認識していたことを意味する。むしろ[[中国]][[正史]]の記録者からすれば、神武東征は史実として記述するに値するが、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は史実として記述するほどの事業ではなかったことを意味している。『[[新唐書]]』では『其の王の姓は阿每氏、自ら言うには初主は天御中主と号し、[[ウガヤフキアエズノミコト|彦瀲]]に至り、凡そ三十二世である。皆以て「尊」を号して、筑紫城に居る。彦瀲の子神武が立ち、更に以て「天皇」を号す、徙いて大和州を治める。』と記述されている<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P25-26</ref>。
福島県の政治家である[[石原洋三郎]]が自費出版書籍で唱えた説がある。
* 『[[宋史]](中国[[正史]])』においても[[新唐書]]同様に、神武東征について記述されているが、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は記述されていない<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P48</ref>。神武東征は史実として記述するに値する。
* 『[[新唐書]](中国[[正史]])』では、初主「[[天之御中主神|天御中主]]」に始まり、第58代「[[光孝天皇]]」までが記載されているが、[[遷都]]については、[[唐]]代に行われた[[平城京]](710年)遷都・[[平安京]](794年)遷都が記述されていない。しかし、「[[神武天皇]]」の際の「居筑紫城→徙治大和州。」は記載されている。わが国にとって、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は大事業であり、歴史的事実であるが、それ以上に、「九州」から「畿内」に遷都したことを一大事業として、中国側が認識していたことを意味する。むしろ[[中国]][[正史]]の記録者からすれば、神武東征は史実として記述するに値するが、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は史実として記述するほどの事業ではなかったことを意味している。『[[新唐書]]』では『其の王の姓は阿每氏、自ら言うには初主は天御中主と号し、[[ウガヤフキアエズノミコト|彦瀲]]に至り、凡そ三十二世である。皆以て「尊」を号して、筑紫城に居る。彦瀲の子神武が立ち、更に以て「天皇」を号す、徙いて大和州を治める。』と記述されている<ref >
* [[石塚山古墳]]などの[[古墳時代#古墳時代出現期|出現期前方後円墳]]が九州に発生し、近畿([[纏向石塚古墳]]・[[椿井大塚山古墳]]・[[黒塚古墳]]など)に移行する過程で、[[埴輪]]の祖形が導入されたと考えられるということ<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P65</ref>。[[出雲]]勢力の文化が大和の古墳造成に影響を与えていると考えられている。大和地方の纏向(まきむく)遺跡において、遺跡内で最古の古墳とされる[[纏向石塚古墳]]は全長93m前後であるが、[[吉備]]地方の墳丘墓と共通する要素が見受けられている。[[纏向遺跡]]群においては、他にも[[ホケノ山古墳]]などの[[前方後円墳]]があるがいずれも100m台は越えていない。[[石塚山古墳]]は九州にありながら、極めて在地的と評価をされる130m前後の[[古墳時代#古墳時代出現期|出現期前方後円墳]]<ref >「『復刻版 豊前石塚山古墳』苅田町・かんだ郷土史研究会 2016年8月」 石塚山古墳は初期国家草創期に築造され、北部九州の中でも傑出している存在として考えられている。</ref>であり、[[纏向遺跡]]の出現期古墳群より大きい。[[前方後円墳]]の技術が、[[九州]]から[[神武東征]]によって[[大和]]へ持ち込まれ、その過程で吉備地方の建造技術や特殊土器類等の技術が導入されていったものと考えられるということ<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P50-54 国家的な政治力がなければ、100m以上の出現期前方後円墳([[石塚山古墳]])は、登場しないと思われる。石原は[[石塚山古墳]]を[[卑弥呼#卑弥呼の墓|卑弥呼の墓]]に比定している。</ref>
* 『[[宋史]](中国[[正史]])』においても[[新唐書]]同様に、神武東征について記述されているが、[[平安京]]遷都や[[平城京]]遷都は記述されていない。神武東征は史実として記述するに値する。
* 『[[隋書倭国伝]](中国正史)』では、[[裴世清]]が[[九州]]に上陸した際、『そこ(竹斯國)の人は中華の夏と同じであるが、蛮夷の州となされている。疑わしいが明らかにすることはできない。』と説明がなされている。[[華夏]]は中華発祥の地である。九州の人は中華発祥の地の[[夏 (三代)|夏]]と同じであるはずなのに、[[蛮夷]]の州となされており、使者は疑問に思っている。さらに続けて、[[隋書]]では『[[竹斯国]]([[筑紫国]])より東は、倭によって、皆、附庸(付属・保護・支配)されている。』と説明されおり、筑紫国以東の「大和州」は[[付庸国]]であることを意味する。筑紫国を「[[華夏]]」(発祥地)、大和州を「[[付庸国]]」と捉えているため<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷p48-49</ref>
* [[石塚山古墳]]などの[[古墳時代#古墳時代出現期|出現期前方後円墳]]が九州に発生し、近畿([[纏向石塚古墳]]・[[椿井大塚山古墳]]・[[黒塚古墳]]など)に移行する過程で、[[埴輪]]の祖形が導入されたと考えられるということ。[[出雲]]勢力の文化が大和の古墳造成に影響を与えていると考えられている。大和地方の纏向(まきむく)遺跡において、遺跡内で最古の古墳とされる[[纏向石塚古墳]]は全長93m前後であるが、[[吉備]]地方の墳丘墓と共通する要素が見受けられている。[[纏向遺跡]]群においては、他にも[[ホケノ山古墳]]などの[[前方後円墳]]があるがいずれも100m台は越えていない。[[石塚山古墳]]は九州にありながら、極めて在地的と評価をされる130m前後の[[古墳時代#古墳時代出現期|出現期前方後円墳]](「『復刻版 豊前石塚山古墳』苅田町・かんだ郷土史研究会 2016年8月」 石塚山古墳は初期国家草創期に築造され、北部九州の中でも傑出している存在として考えられている。)であり、[[纏向遺跡]]の出現期古墳群より大きい。[[前方後円墳]]の技術が、[[九州]]から[[神武東征]]によって[[大和]]へ持ち込まれ、その過程で吉備地方の建造技術や特殊土器類等の技術が導入されていったものと考えられる。 国家的な政治力がなければ、100m以上の出現期前方後円墳([[石塚山古墳]])は、登場しないと思われる。石原は[[石塚山古墳]]を[[卑弥呼#卑弥呼の墓|卑弥呼の墓]]に比定している。
* 『[[北史倭国伝]](中国正史)』も隋書倭国伝と同様の記述がなされている<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷p48-49</ref>。
* 『[[隋書倭国伝]]』では、[[裴世清]]が[[九州]]に上陸した際、『そこ(竹斯國)の人は中華の夏と同じであるが、蛮夷の州となされている。疑わしいが明らかにすることはできない。』と説明がなされている。[[華夏]]は中華発祥の地である。九州の人は中華発祥の地の[[夏 (三代)|夏]]と同じであるはずなのに、[[蛮夷]]の州となされており、使者は疑問に思っている。さらに続けて、[[隋書]]では『[[竹斯国]]([[筑紫国]])より東は、倭によって、皆、附庸(付属・保護・支配)されている。』と説明されており、筑紫国以東の「大和州」は[[付庸国]]であることを意味する。筑紫国を「[[華夏]]」(発祥地)、大和州を「[[付庸国]]」と捉えているため。
* 『[[旧唐書]](中国正史)』では『倭国は古くの倭奴国である』とあり、『[[新唐書]]・[[宋史]]』でも『日本は古くの倭奴国である』との説明がある。[[中国]]の[[歴史家]]は[[倭国]]([[日本]])の前身について、[[九州]]に存在した[[倭]][[奴国]]と捉えており、[[倭国]] ([[日本]])の前身は[[九州]]に存在するため<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷p49</ref>
* 『[[北史倭国伝]]』も隋書倭国伝と同様の記述がなされている。
* [[南史倭国伝]](中国正史)』では、『倭国、その先祖の出た場所および所在については北史に詳しい事が記されている。』<ref >南史「倭國、其先所出及所在、事詳北史。」</ref>と記述されている。『北史<ref >小学館大辞泉によれば、「公正・詳密な記述で史料的価値が高い。」、精選版 日本国語大辞典によれば、「詳密な記述で史料価値が高い。」とある。</ref>([[北史倭国伝]]参照)』では、場所に関して“邪馬台国への行程”および“[[阿蘇山]](九州)” <ref >北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。」</ref>が詳述されており、阿蘇山(九州)を、「[[邪摩堆]](大和)」に都をおく[[倭国]]の先の出た場所([[邪馬台国]])と捉えている。すなわち、[[九州]]に存在した[[邪馬台国]]が東遷して「[[邪摩堆]](大和)」に都を移したと考えられるため<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷 P43-48</ref>『[[北史倭国伝]] <ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P17によれば、『[[三国志]]』と『[[後漢書]]』、『[[宋書]]』と『[[南斉書]]』、『[[晋書]]』『[[梁書]]』と『[[隋書]]』、『[[南史倭国伝|南史]]』と『[[北史倭国伝|北史]]』の四グループに考えられるが、その記述内容はお互いに密接な関係を持っている点が特徴と述べられている。</ref>』では、「[[邪摩堆]](大和)」は[[竹斯國]](筑紫国)の'''東方'''にあるが、[[邪馬台国]]については、[[末盧国]](九州上陸地点)から、東南陸行600里→東陸行100里→南水行30日及び南陸行1月にある<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P35-42</ref>。[[帯方郡]]から[[邪馬台国]]までの距離は12000里であり、末盧国(九州北岸)から邪馬台国までが残2,000里(『倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中』の2/3の距離)であるので九州内に収まると考えられる。[[魏志倭人伝]]で曖昧とされた旅程日数「南へ二月」については、北史では、倭国の領域を「南北三月行」<ref >北史 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」</ref>と述べた上で、「南へ二月」で邪馬台国に到着すると述べている<ref >北史「又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都」</ref>。すなわち、九州の北岸から、九州の南岸までが、南北三月行であることから、二月南行しても、ようやく九州中部付近であり、北史では[[魏志倭人伝]]で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離については明確化されていると考えられるため<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P1-18 魏志倭人伝では「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」の概念がなかった。</ref>
* 『[[旧唐書]](中国正史)』では『倭国は古くの倭奴国である』とあり、『[[新唐書]]・[[宋史]]』でも『日本は古くの倭奴国である』との説明がある。[[中国]]の[[歴史家]]は[[倭国]]([[日本]])の前身について、[[九州]]に存在した[[倭]][[奴国]]と捉えており、[[倭国]] ([[日本]])の前身は[[九州]]に存在するため。
* 『[[隋書倭国伝]] ([[北史倭国伝]])』では、「倭國」について、『[[邪靡堆]](北史には邪摩堆とある)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。』<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P65)P65</ref>とあり、[[邪馬台国]]と[[大和朝廷]]の連続性を認めているため<ref >『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷P45</ref>。中国の[[歴史書]] <ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P17によれば、『[[三国志]]』と『[[後漢書]]』、『[[宋書]]』と『[[南斉書]]』、『[[晋書]]』『[[梁書]]』と『[[隋書]]』、『[[南史倭国伝|南史]]』と『[[北史倭国伝|北史]]』の四グループに考えられるが、その記述内容はお互いに密接な関係を持っている点が特徴と述べられている。</ref>(正史)においては、九州北部にあった旧は小国の[[邪馬台国]]<ref >旧唐書「日本舊小國」・「日本國者、倭國之別種也」、新唐書「國近日所出,以爲名」、隋書・北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者」</ref>が、[[倭国大乱]]の後、盟主<ref >魏志「倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王」、旧唐書「日本舊小國、併倭國之地」、新唐書日本伝「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號」</ref>となり、そして南の「狗奴国」を統一後に、神武東征が開始されたと考えられる。「女王国より東に海を渡ること千餘里にて復有る国」<ref >魏志「女王国東渡海千餘里復有國。」</ref>や「竹斯国より東の全て」<ref >隋書・北史「自竹斯國以東、皆附庸於倭」</ref>が征服されていく過程において、「日本」の初代天皇であられる[[神武天皇]]が「筑紫城」を出立し、「大和州」を征服した後<ref >新唐書「居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。」</ref>、「[[邪摩堆]](大和)」に都を遷したと考えられるため<ref >[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P63-64</ref>。
*『[[北史倭国伝]]』では、場所に関して“邪馬台国への行程”および“[[阿蘇山]](九州)” (北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)が詳述されており、阿蘇山(九州)を、「[[邪摩堆]](大和)」に都をおく[[倭国]]の先の出た場所([[邪馬台国]])と捉えている。すなわち、[[九州]]に存在した[[邪馬台国]]が東遷して「[[邪摩堆]](大和)」に都を移したと考えられるため。「[[邪摩堆]](大和)」は[[竹斯國]](筑紫国)の'''東方'''にあるが、[[邪馬台国]]については、[[末盧国]](九州上陸地点)から、東南陸行600里→東陸行100里→南水行30日及び南陸行1月にある。[[帯方郡]]から[[邪馬台国]]までの距離は12000里であり、末盧国(九州北岸)から邪馬台国までが残2,000里(『倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中』の2/3の距離)であるので九州内に収まると考えられる。[[魏志倭人伝]]で曖昧とされた旅程日数「南へ二月」については、北史では、倭国の領域を「南北三月行」(北史 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海)と述べた上で、「南へ二月」で邪馬台国に到着すると述べている(北史「又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都)。すなわち、九州の北岸から、九州の南岸までが、南北三月行であることから、二月南行しても、ようやく九州中部付近であり、北史では[[魏志倭人伝]]で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離については明確化されていると考えられるため。魏志倭人伝では「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」の概念がなかった。
* 『[[隋書倭国伝]] ([[北史倭国伝]])』では、「倭國」について、『[[邪靡堆]](北史には邪摩堆とある)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。』(『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 岩波文庫』P65)とあり、[[邪馬台国]]と[[大和朝廷]]の連続性を認めているため。中国の正史においては、九州北部にあった旧は小国の[[邪馬台国]](旧唐書「日本舊小國」・「日本國者、倭國之別種也」、新唐書「國近日所出,以爲名」、隋書・北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者」)が、[[倭国大乱]]の後、盟主(魏志「倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王」、旧唐書「日本舊小國、併倭國之地」、新唐書日本伝「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號)となり、そして南の「狗奴国」を統一後に、神武東征が開始されたと考えられる。「女王国より東に海を渡ること千餘里にて復有る国」(魏志「女王国東渡海千餘里復有國。」や「竹斯国より東の全て」隋書・北史「自竹斯國以東、皆附庸於倭)が征服されていく過程において、「日本」の初代天皇であられる[[神武天皇]]が「筑紫城」を出立し、「大和州」を征服した後(新唐書「居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。)、「[[邪摩堆]](大和)」に都を遷したと考えられるため。『邪馬台国』 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P63-64</ref>。
 
=== 否定説 ===