「内藤忠勝」の版間の差分

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→‎人物像と諸説: 憶測除去。出典ありの諸説に反論するなら出典付与が必要。また諸説も専門書が出典ではないので断定記述を回避
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== 人物像と諸説 ==
甥(姉・[[内藤波知|波知]]の子)の[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]は、21年後に[[赤穂事件|同様の事件]]を起こして同じ末路をたどることになるが、『江戸トンデモ殿さま列伝』では、これは内藤家の遺伝がそのまま長矩に受け継がれたのではないかとされている。忠勝も長矩も[[癇癪]]持ちで、しかも内藤家は精神病の家系だった。忠勝の兄の忠次が家督を辞退したのは[[精神障害]]だったためとも推測されおり、忠勝にもその障害があったのではないかとされている{{Sfn|グループイストゥワールF2|2009|p=24}}。
 
ただし、これらの説はただの憶測なので注意が必要である。まず内藤家が精神病の家系、あるいはその様な振る舞いをしていたとする資料は現在のところ確認されていない。また、資料の乏しい忠勝はともかく長矩は短気だと様々な書物で評されているが、これは事件で有名になったために事件後に書かれたのものや信憑性に欠けているものが多く([[浅野長矩]]のページも参照)、そのことが短気であることを否定するものではないが、どの程度短気だったのかも不明である。二度饗応役に命じられていることから生前は少なくとも問題視される程に短気や粗暴という評判ではなかったことが推測される。
 
また、忠勝の事件の場合、尚長は上席であってもあくまでも同じ地位であり、上記の話が本当だとすれば当時の武士としては切り掛かってもおかしくない無礼な仕打ちを受けたことに留意する必要がある(必ずしもそうするわけではないが、当時の武士としては売られた喧嘩は買わない方がむしろ恥とされる文化であるため、このような事件の場合は短慮だと非難される一方で同情されることもあるなど、事情によっては当時の世情は切り掛かった方が一方的に悪いとはならない)。長矩の方にいたっては取り調べすらされずに切腹を命じられたために完全に原因不明である(前述の事情から仮に喧嘩を売っていたとしたら吉良上野介も立場が決定的に悪くなるので潔白を主張することは当然の話であり、重要な資料の多門筆記もかなり後に書かれていて長矩・上野介双方の記述も鵜呑みにして良いものか多少怪しいことなどから、上野介の主張ですら事実かどうかは不明である)。
この様に、現在のところ精神障害だったから事件を起こしたという説の否定はできないが、精神障害だと決定づけることも難しい。
 
== 脚注 ==