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[[バラモン]]の家系に生まれ、学僧として活躍し議論を好んだ。当初は仏教を非難していたが、付法蔵第11人目の富那奢(または第10人目の脇比丘とも)に論破され、舌を切って謝罪しようとしたが、諭されて仏教に帰依し布教するようになった。
 
聡明で智慧があり、中インド華氏城([[パータリプトラ]])において、天賦の詩才をもって民衆を教化した時に、釈迦の弟子である[[ラッタパーラ]]({{lang-sa|Rāṣṭrapāla}}、頼吒惒羅〈らいたはら〉)をモデルとして戯曲を作り演じたところ、多くの市民を教し、皆それを聞いて無常を[[悟り]]、500人もの王子や人々が出家したといわれため、王はついにこの戯曲を演じることを禁止したといわれる。
 
後に大月氏国([[クシャーン朝]])の[[カニシカ王]]が中インドを征服し和議した結果、この王に伴われ、[[北インド]]へ赴いた。カニシカ王の保護のもとで、仏法を宣教して民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。