「ホレィシォ・ネルソン・ジャクソン」の版間の差分

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'''ホレ・ネルソン・ジャクソン'''(Horatio Nelson Jackson) (1872年-1955年1月14日) は、アメリカ合衆国を自動車で横断した最初の人物。 "マッド・ドクター(The Mad Doctor)"ともよばれた。
 
100年前、アメリカには舗装された道路はほとんどなく、自動車は一般大衆にはまだ認識もされていない。わずかに知る人でさえ"馬の要らない車"は新しいが奇妙な乗り物であり"実用には使えない単なるおもちゃ"と思っていた。そういう時代の話である。
 
1903年の春、サンフランシスコのある大学のクラブに集っていた男たちは、ホレ・ネルソン・ジャクソンが「『自動車で大陸横断ができる』方に50ドルを賭ける」というのを聞いた。ジャクソンは宣言した。「自分で運転をする。サンフランシスコから合衆国を横断しニューヨークに行く。3ヶ月以内だ。」ジャクソンの側に付いたものも何人かおり、その後たった4日で自動車の調達から何からの旅の支度を済ませたのだった。
 
==旅以前==
6月16日、アイダホのどこかで、旅の資金を仕舞いこんでいたジャクソンのコートが落ちてしまい探したが見つからなかった。次の停車地点でジャクソンは妻に電信でワイオミング、シャイアンまで金を送るように伝えた。しかし車のホイルベアリングがやられてしまい、クロッカーは農家に頼み込んで芝刈り機からホイールベアリングをもらいなんとかまにあわせた。
 
7月12日、一行は、ついに、ネブラスカ、オマハにたどり着いた。ここからは、すこしは舗装された道を通ることができる。旅は楽になるぞ。そして1903年7月26日にニューヨークシティーに到着する。サンフランシスコを発って63日、約2ヶ月だった。8000ドル(17万ドル、約2000万円)を費やした。
 
==旅の途中でのトピック==
* ガソリンスタンドなどなかったが、ガソリンはコンロやポンプ、農作業機械用のものが一般の店で販売されていた。自動車用品店などあるわけがない。
 
* アイダホに入る手前で車のメーターが落ちてしまった。このため、彼らがどのくらいの速度で走ったのか、どのくらいの距離をすすんだのか知るすべがなくなった。
*ガソリンスタンドなどなかったが、ガソリンはコンロやポンプ、農作業機械用のものが一般の店で販売されていた。自動車用品店などあるわけがない。
 
* 砂地を横切るのにヨモギを100フィート(約30メートル)敷き並べ、その上をゆっくり走った。車を止め、歩いてスタート地点に戻り、ヨモギを拾い集めてまた車の前方100フィートに敷いた。これを繰り返してようやく砂地を通り越した。
*アイダホに入る手前で車のメーターが落ちてしまった。このため、彼らがどのくらいの速度で走ったのか、どのくらいの距離をすすんだのか知るすべがなくなった。
 
* もうすぐニューヨークというある、障害物にぶつかり、二人と一匹は車の外に投げ飛ばされた。だれもけがはなかった。これが旅における唯一の事故だった。
*砂地を横切るのにヨモギを100フィート(約30メートル)敷き並べ、その上をゆっくり走った。車を止め、歩いてスタート地点に戻り、ヨモギを拾い集めてまた車の前方100フィートに敷いた。これを繰り返してようやく砂地を通り越した。
 
* 彼らが旅を始めてしばらくして、パッカードとオールズモビルの車が、それぞれ別々にサンフランシスコからニューヨーク市を目指し出発している。運転は熟練ドライバーでそれぞれの車の会社の後ろ盾をもらっての出発だった。北側のルートを通ったジャクソンたちを追い越せるようもっと中央部のルートを通っていた。早いペースで車を進め、ジャクソンたちを抜くかもしれないと思われたのだが、岩の多い山道に行く手を阻まれたり、車が持たなかったりで、どちらの車も途中であきらめてしまった。
*ある時、障害物にぶつかり、二人と一匹は車の外に投げ飛ばされた。だれもけがはなかった。これが旅における唯一の事故だった。
 
* ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーが、自社の車がアメリカ横断に使われていると知ったのは、中西部を過ぎてパーツが必要になったとき、ジャクソンがパーツを要求した電信を直接ウィントン社宛てに打った時だった。以降は、ウィントン社も協力し、最終ゴールであるニューヨーク市のホテルまでのウイニングランにも参加している。
 
==その後の人生==
ジャクソンはバーリントンで企業家となる。
 
旅が終わり、ホレ・ネルソン・ジャクソンはバーモント、バーリントンでバーサとバドと暮らす。バーリントンで、ジャクソンは、セオドア・ルーズベルト大統領と会っている。第一次世界大戦が起こり42歳という年齢にもかかわらず陸軍に志願する。そのままではとてもいけないため、ルーズベルトに連絡をとった。結果オフィサーとして任命され欧州に渡る。戦争が終わり米陸軍から『殊勲十字章([[:en:Distinguished Service Cross (United States)|Distinguished Service Cross]])』、フランスから『戦功十字章([[:en:Croix de Guerre|Croix de Guerre]])』を授かり、英雄として帰郷。その後、米国在郷軍人会(American Legion)の創設にも携わる。バーモント州知事選には二度立候補したがかなわなかった。新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)開設をおこない銀行の頭取でもあった。彼は一度だけバーリントンで時速10マイルを超えるスピード違反でチケットを切られている。
 
1944年、72歳になったジャクソンは車と、当時の新聞のスクラップ、バドのゴーグルをワシントンスミソニアン博物館に寄贈する。晩年は、聞きたいというなら誰にでも、1903年ウィントン社製でウィントンが『バーモント』と名付けた車での大陸横断冒険物語を語り聞かせることを楽しみとしていた。
'''Horatio's Drive: America's First Road Trip''' (2003) 
 
2003年、ドキュメンタリー映画製作者、ケン・バーンズがホレの番組を制作。2003年10月3日、PBSで放映された。この番組はデイトン・ダンカン(Dayton Duncan)の同名タイトルの本(ISBN 037541536X)を基にしたもの。この番組にはグッド・オールド・ソングもちりばめられている。この番組はDVDとして現在米国で発売されている。
 
この作成の過程でケンはジャクソンの孫娘からジャクソンが旅の途中に書いた手紙を見せてもらっている。手紙からは、ジャクソンの人生に対する考え方と、思い立ったらやらないと気がすまない性格がよくわかったという。
 
[http://www.pbs.org/horatio/ PBS]PBSのホレ・サイト:多くの情報とさらに詳細な情報のための多くのリンクが含まれている。
 
==トリビア==
 
==名前の日本語読みについて==
Horatioの日本語読みには、ホレーショ、ホレーショー、ホレイショ、ホラティオ、ホラチオ、ホレイティオ、ホレイシオなど様々で統一はない。Horatio Nelson Jacksonは日本では触れられておらず、ネルソン提督はイギリス人だがWikipediaこの項では米語発音に近いホレとして掲載しているのに合わせた。
 
==参考==
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