「タマン・サリ」の版間の差分

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'''タマン・サリ'''(Taman Sari、{{lang-jv|ꦠꦩꦤ꧀ ꦱꦫꦶ}})は、[[インドネシア]]の{{仮リンク|ジョグジャカルタ王宮 (クラトン)|en|Kraton Ngayogyakarta Hadiningrat|label=ジョクジャカルタ王宮(クラトン)}}近くにある離宮の跡であり、'''水の王宮'''とも称される<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AA-689397 |title=タマンサリ |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2020-05-21}}</ref>。この離宮は[[ジョグジャカルタ市]]の王宮({{仮リンク|クラトン (インドネシア)|en|Kraton (Indonesia)|label=クラトン}})の南(南西<ref name=JCIC />)およそ2キロメートル内に位置する。ジョグジャカルタ候国と称された{{仮リンク|スルタン家|en|Yogyakarta Sultanate}}<ref name=dohosha_245>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、245頁</ref>の王室庭園の跡であり、タマン・サリは、[[インドネシア語]]で「花園」の意である<ref name=Suenaga>{{Cite book |和書 |author=末永晃 |title=インドネシア語辞典 |edition=ポケット版 |year=1992 |publisher=[[大学書林]]}} </ref>。
 
タマン・サリは、[[18世紀]]中頃の[[1757年]]に{{仮リンク|ハメンクブウォノ1世|en|Hamengkubuwono I}}([[スルラム王国]]の[[ンクブウォノ1世、在位[[1755年|1755]]–[[1792年]]<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、217・245・408頁</ref>)により造営が開始された。タマン・サリには、休息場、作業場<ref>[[#nhk|『アジア古都物語 ジョグジャカルタ』 (2002)]]、58頁</ref>、瞑想場、防御要塞<ref>[[#nhk|『アジア古都物語 ジョグジャカルタ』 (2002)]]、56頁</ref>、それに隠れ場所といった多様な役割があった<ref>{{Cite book |last=Tjahjani |first=Indra |title=Taman Sari Yogyakarta: a cultural perspective in landscape design |year=2005 |publisher=[[キャンベラ大学|University of Canberra]]. School of Design and Architecture |isbn= |page=146 |url=https://books.google.com/?id=qhF0NAAACAAJ&dq=Taman+Sari+%28Yogyakarta%29 |accessdate=April 8, 2010}}</ref>。花園に囲まれた水浴場に王宮に仕える女性に水浴びをさせ、それをスルタンが塔の3階より眺めて<ref name=NHK_42>[[#nhk|『アジア古都物語 ジョグジャカルタ』 (2002)]]、42頁</ref>気にいった女性に花束を投げて、王専用の施設の水浴場で沐浴したり、夜をともにしたりしたともいわれる<ref>{{Cite book |和書 |author=中村浩 |title=ぶらりあるきインドネシアの博物館 |year=2015 |publisher=芙蓉書房出版 |isbn=978-4-8295-0655-4 |page=59}}</ref>。また、離宮ではあるが、延長5キロメートル、2層からなる地下通路が張り巡らされ有事に使用された。ここにはイスラム導師の礼拝室、祈りを捧げる前に身を清める湧水の泉があり、宗教儀礼的な意味を持っている。
 
タマン・サリは、明確に分かれる4つの地区より構成され、北に島および建物のある大きな人工湖、中央に水浴場、南に別館と沐浴池の複合体、そして東側には別の人工湖があった。今日、中央の水浴場については良く保存されているものの、そのほかの地区は大部分がカンプン・タマン (Kampung Taman) 集落により占められている。
== 歴史 ==
[[ファイル:Tamansari bathing areas from nearby tower.jpg|thumb|保存・修復された中央の沐浴場]]
タマン・サリの造営は、[[マタラム王国]]が分裂した時代<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、217・407-409頁</ref>、ジョグジャカルタのスルタン家(ジョグジャカルタ候国)の初代[[スルタン]]<ref name=dohosha_245 />、{{仮リンク|ハメンクブウォノ1世|en|Hamengkubuwono I}}(スルタン・ハムンク・ブウォノ1世、在位[[1755年|1755]]–[[1792年]]<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、217・245・408頁</ref>)の治世中に始まり、次代スルタン・{{仮リンク|ハメンクブウォノ2世|en|Hamengkubuwono II}}(ハムンク・ブウォノ2世、在位1792–[[1810年|1810]]、[[1811年|1811]]-[[1812年|1812]]、[[1826年|1826]]-[[1828年]]<ref name=dohosha_408>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、408頁</ref>)の時代に完成した。しかしこの建設用地は、{{仮リンク|アマンクラット4世|id|Hamangkurat IV}}(マンクラット4世<ref name=dohosha_408 />、在位[[1719年|1719]]-[[1726年]])の治世には、すでにパセトカンの泉({{lang-en-short|Pacethokan Spring}})と呼ばれる沐浴場として知られていた<ref name="periplus">{{Cite book |last=Oey |first=Eric |title=Java, Indonesia |url=https://books.google.com/?id=YA3TNeNUfkAC&pg=PA162&lpg=PA162&dq=Pacethokan+Spring#v=onepage&q=Pacethokan%20Spring&f=false |accessdate=April 4, 2010 |year=1997 |publisher=[[w:Periplus Editions|Periplus Editions]] |location=Singapore |series=Periplus Adventure Guides |isbn=962-593-244-5 |pages=161–164}}</ref><ref>{{Cite book |last1=Margantoro |first1=J.B. |last2=Nusantara |first2=A.A. |title=Sri Sultan Hamengku Buwono X: Meneguhkan Tahta Untuk Rakyat |url=https://books.google.com/books?id=8E1wAAAAMAAJ&q=Pacethokan+Amangkurat&dq=Pacethokan+Amangkurat&cd=2 |accessdate=April 8, 2010 |year=1999 |publisher=Gramedia Widiasarana Indonesia bekerja sama dengan Harian Bernas Yogyakarta |language=id |isbn=9789796695706 |page=160}}</ref>。{{仮リンク|ジョグジャカルタ王宮 (クラトン)|en|Kraton Ngayogyakarta Hadiningrat|label=ジョグジャカルタ王宮}}の史料 Kitab Mamana によると、タマン・サリ建設事業の指導者は Tumenggung Mangundipura であった。彼はヨーロッパ建築について学ぶために[[バタヴィア]]([[ジャカルタ#バタヴィア市の成立|ジャカルタ]])を2度訪れており、それがタマン・サリの建築にヨーロッパ様式が見られる由縁であるとされる<ref>{{Cite book |author=International Federation of Landscape Architects |title=Paradise on Earth: The Gardens of the XXI Century: the 3rd International Federation of Landscape Architects World Congress, Volume 1 |url=https://books.google.com/books?cd=1&id=8jzrAAAAMAAJ&dq=taman+sari+european+style&q=European+and+Javanese+style |accessdate= |year=1996 |publisher=Italian Association of Landscape Architecture |location=Florence |pages=133–136}}</ref>。
 
その建設事業において、[[東ジャワ州|東部ジャワ]]の[[マディウン]]の摂政([[県 (インドネシア)|ブパティ]]、''Bupati'')、ラデン・ランガ・プラウィラセンティカ ([[:id:Raden Rongga Prawiradirja|Raden Rangga Prawirasentika]]) が、タマン・サリの建設資金の支援に参画し、またプラウィラセンティカはスルタンにマディウンの納税義務からの救済を嘆願して、納付の別の代替方法を進言した。スルタンは彼の提案を受け入れた。[[1758年]]、スルタンは摂政に煉瓦やさまざまな補完物の製造を統轄するように命じ、それらは美しい庭園の構築に使用されることになった。