「頂法寺」の版間の差分

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[[室町時代]]に入ると当寺で[[祇園祭]]の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われるようになり、[[江戸時代]]末まで行われた。
 
[[寛正]]2年([[1461年]])[[山城国|山城]]大飢饉のとき、8代将軍[[足利義政]]は、この堂の前に救済小屋を建て、[[時宗]]の僧[[願阿]]に命じて洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に[[応仁の乱]]の後からこの寺は'''町堂'''として[[町衆]]の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する[[土一揆]]や[[法華一揆|天文法華の乱]]などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。
 
近世には「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内には多聞院、不動院、住心院、愛染院などの塔頭があったが現存しない。観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に[[門前町]]が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。