「加藤秀司」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m テンプレートの一部変更 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
62行目:
{{by|1976年}}には2年連続の打点王。守備の方でも{{by|1977年}}まで[[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]を3年連続で受賞した。{{by|1979年}}に[[登録名]]を'''加藤 英司'''に変更。同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・[[新井宏昌]](南海)との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で2度目の打点王の二冠を獲得。本塁打王も近鉄の[[チャーリー・マニエル]]と激しく争ったが、33本で並んでいた時に目の前で[[今井雄太郎]]がマニエルにまともに34号を打たれ、「消化試合なのに何やってんだ」とガックリきたという<ref name="HankyuOugonNoRekishi"/>。結局自己最多の35本塁打を記録したものの、37本塁打のマニエルに及ばず、[[三冠 (野球)|三冠王]]は逃した。
長く阪急の中心打者として活躍するも、{{by|1982年}}に打率.235の成績に終わると、監督の[[上田利治]]による若手切り替え方針に則り、[[水谷実雄]]との交換[[トレード]]により[[広島東洋カープ]]に移籍した。広島ではまずまずの成績を収めていたものの、シーズン半ばで[[肝炎]]
{{by|1986年}}に[[読売ジャイアンツ]]に金銭トレードにて移籍。5月10日の対広島戦で「[[全球団から本塁打]]」という記録を達成するものの、[[中畑清]]から一塁手の定位置を奪えずに[[代打]]での出場が目立ち、2,000本安打まで残り13安打にこぎ着けたものの、同年オフに[[自由契約]]となる。
|