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== 背景 ==
[[李氏朝鮮]](朝鮮)では、[[日清戦争]]で大日本帝国(日本)が[[清]]に勝利すると、王妃である[[閔妃]]が朝鮮で一層強化する日本の支配力を警戒した。[[三国干渉]]によってロシア帝国(ロシア)の[[東アジア]]への影響力が強まったことで、日本への牽制を含めて親露政策を強めるようになる。その後、[[乙未事変]]で閔妃が[[暗殺]]され(殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、この[[禹範善]]は『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。(アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』))、[[1896年]][[2月11日]]、親露派の李範晋や[[李完用]]らによって[[クーデター]]が行われ、国王の[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]がロシア[[在外公館|公使館]]に移り、執務([[露館播遷]])を行うようになった。日本の後押しを受けていた開化派政権は崩壊し、ロシアの影響力が強まった。1896年7月、開化派の流れを汲む者たちが朝鮮の自主[[独立]]、[[法治国家|法治主義]]の確立、[[新教育運動|新教育]]の振興]]、[[農業]]の改良、[[工業]]の育成、[[愛国心]]、[[君主]]への[[忠誠]]心の培養を訴え、李完用らが[[独立協会]]を設立した。
 
[[1897年]]以降、ロシアの影響力が顕著になると、独立協会は反露闘争を展開、国王の高宗に王宮に戻ることを要請した。高宗は王宮に戻り、大韓帝国の[[独立]]を宣言した。これによりロシアの勢力は朝鮮半島から後退したが、独立協会の主張は次第に[[守旧派]][[官僚]]との対立を招き、最終的に高宗の[[勅令]]により独立協会は解散させられた。