「マーシャル・プラン」の版間の差分

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== 概要 ==
1947年6月5日に[[ハーバード大学|ハーヴァード大学]]の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、アメリカがヨーロッパに対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた[[西ヨーロッパ]]16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成してアメリカの援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として[[欧州経済協力機構]](OEEC) を設置した<ref>[[欧州経済協力機構]]は[[1961年]]に改称して[[経済協力開発機構]](OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。</ref>。一方アメリカは援助政策の根拠法たる「[[1948年対外援助法]]」を制定し、実施機関として[[経済協力局]] (ECAアメリカ合衆国)|経済協力局]](ECA)を設置した。援助は旧敵国([[枢軸国]])にも供与され、[[イタリア]]や[[オーストリア]]が原参加国に名を連ねたほか、アメリカ・[[イギリス]]・[[フランス]]3か国の占領下にあった[[ドイツ]]西部も援助対象として認められた。
 
マーシャル・プランは西ヨーロッパ諸国の戦後復興に一定の貢献をし、またアメリカ企業には巨大なヨーロッパ市場を提供した。[[ソビエト連邦|ソ連]]及び[[東ヨーロッパ]]諸国は[[モロトフ・プラン]]で対抗した為、ヨーロッパの東西分断が加速したが、その一方で西ヨーロッパ諸国間の統合への動きは進展した。アメリカは無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、[[相互安全保障法]]に基づく援助に吸収された。
[[Image:Marshall plan page 1.jpg|thumb|200px|「1948年対外援助法」の第1頁。「アメリカ合衆国第80議会第2会期は、1948年1月6日火曜日に[[ワシントンD.C.|ワシントン市]]で開会・審議された」とある]]
 
特別議会最終日の12月19日にトルーマンは特別教書を議会に提出した。トルーマンはこの教書で、「過去20年間の苦い経験が教える所では、アメリカ合衆国程の強力な経済でさえも貧困と欠乏の世界の中で繁栄を維持することは出来ない」<ref>油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、242頁。</ref>と指摘した。そして1948年4月1日から1952年6月30日までの間に、西ヨーロッパ16か国に170億ドルを供与するよう要求すると共に、援助の実施機関として「[[経済協力局 (アメリカ合衆国)|経済協力局]](Economic(Economic Cooperation Administration, ECA)、ECA)」を設置する提案を行った。
 
年が明けて1948年1月6日に[[アメリカ合衆国第80議会|第80議会]]が再開された。トルーマンが提出した一般教書は、援助全体のうち初年度分に相当する15か月間の援助(1948年4月1日から1949年6月30日までの期間に68億ドル)のみを要請し、主にこの援助内容の是非を巡る論戦が交わされた。この時も下院を中心に援助額の削減を図る主張が相次いだ。また中国・ギリシャ・トルコに対する追加援助と抱き合わせにすべきだとする主張も強かった。
**[[4月3日]] - トルーマン、1948年経済協力法に署名
**[[4月5日]] - 国際通貨基金、マーシャル・プラン参加国へ融資をしない旨を決定(ERP決定)
**[[4月6日]] - 米国、経済協力局 (ECA) (ECA)を設置。ホフマンを長官に任命
**[[4月15日]] - ECA、第1回対仏援助を実施
**[[4月16日]] - CEEC参加16か国及び西部ドイツ、欧州経済協力機構 (OEEC) 条約に調印