「ハロルド・ヴァン・ビューレン・クリーヴランド」の版間の差分

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[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の投資・経済開発部部長補佐だった1947年5月、通商政策部部長補佐ムーア (Ben T. Moore) 、独墺経済問題部部長[[チャールズ・キンドルバーガー|キンドルバーガー]]らと共同で、[[第二次世界大戦]]で疲弊した[[西ヨーロッパ|西欧]]に対する援助のあり方について勧告する覚書を[[政策企画本部長]][[ジョージ・F・ケナン|ケナン]]に提出した(6月12日、最終報告を提出)。クリーヴランドらは「ソ連の協力の有無に拘わらず、非共産ヨーロッパのための持続的かつ適切な復興計画を押し進める」べきであるとの認識を示すとともに、復興計画を経済的なものに留めず欧州統合をも視野に入れたものとする必要性を主張した<ref>[[油井大三郎]]『戦後世界秩序の形成―アメリカ資本主義と東地中海地域 1945-1947』、281頁。</ref>。この覚書は後の「欧州復興計画([[マーシャル・プラン]])」へと繋がった。
 
欧州復興計画は、[[1947年]][[6月5日]]に[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ジョージ・C・マーシャル|マーシャル]]によって発表されたのち、米国内での審議を経て、[[1948年]][[4月3日]]に「[[1848年経済協力法]]」として立法化された。クリーヴランドは、援助の実施機関として設立された[[経済協力局 (アメリカ合衆国)|経済協力局]] (ECA) の欧州部門副部長として計画の遂行に尽力した。
 
1950年代に入ると、経済開発委員会 (Committee for Economic Development) 所属のエコノミストとして、ワシントンに戻った。