「ポール・グレイ・ホフマン」の版間の差分

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[[1948年]][[6月5日]]、[[ジョージ・C・マーシャル|マーシャル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]は、[[第二次世界大戦]]で被災した[[ヨーロッパ|欧州]]に復興援助を供与する用意があると表明した<ref>「米対欧策転換 大陸全体を援助 マ長官重大演説」、1947年6月7日付毎日新聞(大阪)1面([[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ市]]([[マサチューセッツ州|マサチュセッツ州]])5日発ロイター=共同)。</ref>。この「欧州復興計画([[マーシャル・プラン]])」の発表に伴い、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領は3つの諮問委員会を設置した<ref name="creating 3 committees">「米、三委員会を設置」、1947年6月24日付朝日新聞(東京)1面(ワシントン特電22日発AP特約)。大統領声明の全文は、[http://www.trumanlibrary.org/publicpapers/index.php?pid=2123&st=&st1= Statement by the President on the Economic Effects of Foreign Aid](トルーマン図書館内資料)を参照。</ref>が、このうち[[W・アヴェレル・ハリマン|ハリマン]][[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]を長とする[[ハリマン委員会|委員会]]の委員に就任した<ref name="Harriman committee">[[#河﨑2006|河﨑(2006年)]]、114、121頁。</ref>。
 
翌[[1948年]]4月、援助が実施段階に入ると、実施機関である[[経済協力局 (アメリカ合衆国)|経済協力局]] (ECA) の初代長官に就任した<ref name="Shimada_149">[[#島田|島田(1949年)]]、149頁。</ref>。在任中の[[1949年]][[10月31日]]の[[欧州経済協力機構]] (OEEC) 理事会の席上、ホフマンは欧州に単一市場を創設する構想を表明した<ref>坂出健[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/44520/1/22_10.pdf 「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」](『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年に所収)、24頁。</ref>。この発言は[[1950年]]の[[欧州決済同盟]]創設を促し、[[欧州共同体]]や[[欧州連合]]など[[欧州統合]]への動きを考察する上で、1つの画期と目されている。
 
[[1950年]]、健康問題を理由にECA長官職を辞した。翌1951年、[[フォード財団]]の理事長に就任したが、1953年にステュードベーカー会長として社業に復帰した<ref name="Britannica" />。1954年、ステュードベーカーが[[パッカード]]と合併して「ステュードベーカー・パッカード」となったことに伴い、同社の会長となった。1958年に、国際連合特別基金の、1966年にはその後身である[[国際連合開発計画|国連開発計画]]の事務局長に就任した。[[ブリタニカ百科事典|エンサイクロペディア・ブリタニカ]]社 (Encyclopædia Britannica, Inc.) 及びエンサイクロペディア・ブリタニカ・エデュケーショナル社 (Encyclopædia Britannica Educational Co.) の取締役も務めた。