「二葉亭四迷」の版間の差分

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[[内藤湖南]]の紹介で、[[1904年]](明治37年)3月に[[大阪朝日新聞]]に入社し、東京出張員となった。だがその仕事にはあまり向かず、東京朝日新聞社主筆[[池辺三山]]のはからいで東京朝日に移籍し、小説を連載する。月給百円とかなりの高給だった。『[[其面影]]』や『[[平凡 (小説)|平凡]]』を発表し、読者からは大好評で迎えられる。因に両作品の間に[[夏目漱石]]の『[[虞美人草]]』が連載された。
 
[[1908年]](明治41年)、朝日新聞特派員としてロシア赴任、駐在中に[[東京外国語学校]]時代のロシア語恩師・[[黒野義文]]が教壇に立つ[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]へ向かった。<ref>「ロシアに渡った日本人―江戸・明治・大正・昭和 ユーラシア・ブックレット」 セルゲイ・イリイチ クズネツォフ著、 荒井 雅子翻訳 (東洋書店)</ref> 一方、[[森外]]の『[[舞姫 (森鴎外の小説)|舞姫]]』、[[国木田独歩]]の『牛肉と馬鈴薯』の露訳も行ったが、[[白夜]]のために不眠症に悩まされ、また翌年、[[ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ|ウラジーミル大公]]の葬儀のために雪の中でずっと立っていたことが災いし発熱。肺炎、肺結核におかされ、死を予感し妻や祖母宛に遺言状を書いた後(この遺言は交友のあった[[坪内逍遥]]宛に託されたという)、友人の説得で帰国することになる。4月10日に[[日本郵船]]の加茂丸に乗船してロンドンを発ち、日本への帰国途中に容体が重篤となり、[[5月10日]]ベンガル湾上で肺炎の悪化で死去。享年46(満45歳没)。[[5月13日]]夜にシンガポールで火葬がなされ、30日に遺骨が新橋に到着した。[[シンガポール日本人墓地公園|シンガポールの日本人墓地]]にも墓がある<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=0366OQCNeZEC Discover Singapore:The City's History and Culture Redefined by Susan Tsang, Marshall Cavendish, 2007, p92]</ref>。
 
==年譜==