「セルゲイ・ボルトキエヴィチ」の版間の差分

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=== 二つの戦争の狭間 ===
コンスタンティノープルでは、[[スルターン]]付きの宮廷ピアニストであるイレン・イレゲイ(Ilen Ilegey)の助けもあり、ボルトキエヴィチは再び演奏を始め、教育活動も再開した。彼は数多くの大使館員の間で知れ渡るようになり、その中で[[ユーゴスラビア]]大使の妻であったナタリヤ・シャポニッチ(Natalie Chaponitsch)と親しくなって、彼女に「3つの小品 Op.24」([[1922年]])を献呈している。彼女はボルトキエヴィチのために大使館らの音楽集会の幹事をし、また彼女とその夫の助力によりボルトキエヴィチ夫妻はユーゴスラビアへの[[査証|ビザ]]を得ることができた。ボルトキエヴィチ夫妻は[[ベルグラード]]経由で[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]へ赴き、そこで[[オーストリア共和国|オーストリア]]のビザの発給をしばらく待つことになる。そして[[1922年]][[7月22日]]、夫妻はーストリアに亡命する。
 
元々、ボルトキエヴィチは[[ウィーン]]ではなく、[[バーデン]]に住むことにしており、そこに[[1923年]]まで留まっていた。その後、彼はウィーンに移り住んで居を構え、5年に渡ってそこで暮らす。[[1925年]]にはついにオーストリアの[[公民権]]を得た。