「万朶隊」の版間の差分

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両隊がフィリピンに向かっていた10月25日、[[レイテ沖海戦]]中に関ら神風特別攻撃隊が空母撃沈を含む大戦果を挙げたと報じられ、その情報を聞いた陸軍特別攻撃隊員たちは衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.287}}</ref>。その知らせを聞いた「万朶隊」の佐々木は「海軍には負けてられん」という気持ちになったという<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.1841}}</ref>。
 
フィリピンに到着した特別攻撃隊「万朶隊」と「富嶽隊」は[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]の指揮下に入り、[[クラーク空軍基地|クラーク・フィールド]]で激しい訓練を繰り返しながら出撃の機会をうかがった。10月30日には岩本の要請により、{{仮ンク|リパ飛行場|en|Lipa, Batangas}}に進出していたマニラ航空敞の第3分敞が、「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになった<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=9}}</ref>。この改修は岩本が命令に反して決行したとの主張もあるが<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=362}}</ref>、既に鉾田教導飛行師団司令の今西が許可しており、すでに空中投下は可能となっていた<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=347}}</ref>。この改修ののち、「万朶隊」隊員に対して岩本は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」などという指示を出したとする証言もある<ref>{{Cite web |date= 2019-08-24|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/537448/ |title=命の大切さ訴えた特攻隊長 豊前市出身の旧陸軍・岩本益臣大尉|publisher=西日本新聞社|accessdate=2019-10-15}}</ref>。
 
しかし、「万朶隊」のフィリピンでの訓練を取材していた従軍記者の福湯によれば、小柄且つ痩身で、普段は大きな声を出すこともない岩本が、人が変わったかのように声を張り上げて、岩本が立っているピスト(指揮所)に向けて突入する訓練を繰り返させていた<ref>{{Harvnb|大東亜戦史③|1969|p=380}}</ref>。岩本が繰り返させた訓練は、加速度で爆弾の破壊力を増大させ、また対空砲火による撃墜の可能性が低いという利点があるが、敵艦が回避行動をとった場合に機体を立て直すことが困難という弱点のある「急降下法」と、散々訓練してきた「跳飛爆撃」の応用で、敵艦の2,000mから急降下して、海面20m程度の高度の水平飛行に移行し、そのまま敵艦の[[喫水線]]に体当たりを行うため、高い命中率が期待できるが、「跳飛爆撃」の欠点と同様に一定時間敵艦の対空砲火の浴び続けるので、撃墜される可能性が高いという欠点のある「水平跳飛法」の2つであった。岩本は戦況に応じて、確実に特攻を成功させるためにどちらの戦法で行くかその場で判断せよ。と厳格を通り越した神経質なまでの指示を与えていた<ref>{{Harvnb|現代読本④|1956|p=245}}</ref>。訓練中、各機はプロペラでピストを切るかのような勢いで突進してくるので、そのたびピストがゆらぎ、岩本は立っているのがやっとという状態であった。この訓練は、やり直しのきかない、一発必中を期した特攻を意識した訓練であり、岩本は隊員がヘトヘトになるまでこの突入訓練を繰り返させた。同じ第4航空軍で「九九式双発軽爆撃機」を運用していた飛行第75戦隊の戦隊長土井勤少佐は、岩本とは鉾田時代に顔見知りであったが、その“ふたたび還らざる出撃”を前提とした激烈な訓練を目の当たりにし、「万朶隊」の全員が“生きながらの軍神”のように見えたという<ref>{{Harvnb|土井勤|1969|p=26}}</ref>。
 
[[ファイル:Kamikaze Vanda squadron.jpg|260px|thumb|right|隊長の岩本益臣大尉ら士官が戦死したのちマニラに招かれた万朶隊隊員、酒を酌しているのが第4航空軍富永恭次中将、酒を注がれているのが空襲で負傷し頭に包帯を巻いてる石渡俊行軍曹]]
その後も出撃に備えて訓練を繰り返していたが、11月4日に第4航空軍の司令官[[富永恭次]]中将から、「11月7日に[[ネグロス島]]から帰ってくるので申告(到着の挨拶)をするように」という命令があった。富永は個人的に部下を褒めるのが好きであり、特攻隊員を呼んで宴会を開いて酒を振る舞いたいという意図での命令であった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref>。翌5日の早朝らアメリカ軍の艦載機による空襲があっており岩本らの身を案じた第4航空軍司令部は「飛行機は危ないから車で来るように」と指示していたが<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=400}}</ref>、岩本は司令部参謀忠告を聞くことも無く、朝8時に将校全員となる4名を乗せると自ら特攻機仕様の「九九式双発軽爆撃機」を操縦して、兵舎のあるリパから[[マニラ佐藤勝雄]]少佐によれば、富永へ第4航空軍司令部に向かった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref><ref>[[園田芳巳]]中尉が操縦申告を申という説もある。</ref><ref>{{Harvnb|生田惇|1979|p=81}}</ref>。のは岩本機は離陸後まもなく[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]の方から攻撃を受けた。[[ニコルス飛行場]]その様子を見てい、佐藤は岩本らがまだフィリピンに来海軍の[[津田忠康]]少尉は敵の激しい空襲のな爆撃機単機状況をよく把握飛行していた岩本機を訝しみ「今頃、飛んでくるいと案じて、おかしな双軽だな」などと心配して見守ってつも朝はグラマン、F6Fヘルキャットの銃撃を受けた岩本機は大きく姿勢を崩し、黒煙を噴き上げながいるか[[モンテルンパ]]付」「1時間ぐらいで来られるの畑のなかに墜落した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=411}}</ref>。墜落地付近は[[ゲリラ]]の勢力が強ため、第4航空軍は武装兵を入れた救援隊を編成し救助に向ところだったが岩本、[[園田芳巳]]中尉、[[安藤浩]]中尉、[[川島孝]]中尉の操縦士士官は全員即死、唯一、通信士官の[[中川勝巳]][[少尉]]が重体必ず車収容されたがのちに死亡した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=413}}</ref>。いよ」救援隊の1人であった第4航空軍衛生班機で来る大元肇上等兵には危険だから陸路で来るればうにという指示を行い、岩本らの遺体も「現地の住民に物色されて、遺品は殆ど奪われて返事をして<ref>{{Harvnb|高橋秀治昭和史の天皇13|20141971|p=14387}}</ref>。
 
11月5日、朝8時に岩本は司令部の忠告を聞くことも無く、将校全員となる4名を乗せると自ら特攻機仕様の「九九式双発軽爆撃機」を操縦して、兵舎のあるリパから[[マニラ]]の第4航空軍司令部に向かった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref><ref>[[園田芳巳]]中尉が操縦していたという説もある。</ref><ref>{{Harvnb|生田惇|1979|p=81}}</ref>。岩本機は離陸後まもなく[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]から攻撃を受けた。[[ニコルス飛行場]]でその様子を見ていた海軍の[[津田忠康]]少尉は敵の激しい空襲のなかで爆撃機単機で飛行していた岩本機を訝しみ「今頃、飛んでくるなんて、おかしな双軽だな」などと心配して見守っていたが、F6Fヘルキャットの銃撃を受けた岩本機は大きく姿勢を崩して、黒煙を噴き上げながら[[モンテルンパ]]付近の畑のなかに墜落した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=411}}</ref>。墜落地付近は[[ゲリラ]]の勢力が強いため、第4航空軍は武装兵を入れた救援隊を編成し救助に向かったが、岩本、[[園田芳巳]]中尉、[[安藤浩]]中尉、[[川島孝]]中尉の操縦士士官は全員即死、唯一、通信士官の[[中川勝巳]][[少尉]]が重体で収容されたがのちに死亡した<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=413}}</ref>。このとき、救援隊の1人であった第4航空軍衛生班の大元肇上等兵によれば、岩本らの遺体は現地の住民に物色されて、遺品は殆ど奪われていたという<ref>{{Harvnb|高橋秀治|2014|p=143}}</ref>。
岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は全員落胆し、高級参謀の[[松前未曽雄]]大佐は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」とがっかりとした表情で話していたという<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=417}}</ref>。「万朶隊」は岩本以下の操縦士将校全員が出撃前に戦死してしまうという不運に見舞われた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref>。「万朶隊」の不運は続き、同日のアメリカ軍艦載機による空襲で[[石渡俊行]]軍曹と通信員の浜崎曹長2名の隊員が負傷、鵜沢邦夫軍曹もフィリピン到着時に不時着して入院していたが、戦死した岩本らを[[火葬]]するさいに、火葬のために使った[[ガソリン]]缶に引火し爆発、辺り一面に火災が広がり、[[社本忍]][[軍曹]] が大火傷を負ってしまった<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=255}}</ref>。これで「万朶隊」で健在な搭乗員はたった5名になってしまった<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.814}}</ref>。
 
岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は全員落胆し、高級参謀の[[松前未曽雄]]大佐は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」とがっかりとした表情で話していたという<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=417}}</ref>。「万朶隊」は岩本以下の操縦士将校全員が出撃前に戦死してしまうという不運に見舞われた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref>。岩本が第4航空軍司令部の佐藤らの指示を無視して、危険な空路でマニラに行こうとした真意は不明であるが、作家の[[高木俊朗]]は、マニラと岩本らがいたリパの間の距離は約90㎞もあって、ゲリラを警戒しながらの陸路では3時間以上の時間がかかってしまうため、それを嫌ったという理由に加えて、特攻隊長を命ぜられて胸中には憤激と不満が渦巻いていた中で、富永からマニラに呼びつけられる非常識さにも立腹し、無駄死にを覚悟して、当てこすりにわざわざ危険な空路を選択したと推測しているが<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|pp=419-422}}</ref>、実際のマニラとリパの間の距離は72㎞程度であり、参謀の佐藤によれば自動車でも1時間程度で来れる距離であり、陸路で来なかったのは、車の手配がうまくいかなかったのか、もしくは遠慮したのではと回想し<ref>{{Harvnb|昭和史の天皇13|1971|p=87}}</ref>、同じく参謀の[[美濃部浩次]]少佐によれば、陸路では2時間程度かかるが、岩本らが出発した5日の朝の時点では富永がマニラにいないことはわかっていたので、急いでくる必要はなく、陸路で夕方ぐらいまでに到着すればよかったと回想している<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=418}}</ref>。
 
岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は全員落胆し、高級参謀の[[松前未曽雄]]大佐は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」とがっかりとした表情で話していたという<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=417}}</ref>。「万朶隊」は岩本以下の操縦士将校全員が出撃前に戦死してしまうという不運に見舞われた<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=279}}</ref>。「万朶隊」の不運は続き、同日のアメリカ軍艦載機による空襲で[[石渡俊行]]軍曹と通信員の浜崎曹長2名の隊員が負傷、鵜沢邦夫軍曹もフィリピン到着時に不時着して入院していたが、戦死した岩本らを[[火葬]]するさいに、火葬のために使った[[ガソリン]]缶に引火し爆発、辺り一面に火災が広がり、[[社本忍]][[軍曹]] が大火傷を負ってしまった<ref>{{Harvnb|高木俊朗㊤|1983|p=255}}</ref>。これで「万朶隊」で健在な搭乗員はたった5名になってしまった<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.814}}</ref>。
 
意気消沈した「万朶隊」隊員を激励するため、11月10日に第4航空軍司令官富永は同じ特攻隊の「富嶽隊」隊員と共に全隊員をマニラでの会食に招いた。その席で富永は自ら「万朶隊」の隊員ひとりひとりに酒を酌して回り、「とにかく注意してもらいたいのは、早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」「それまでは身体を大事にしてもらいたい」と声をかけた。体当たりをせずに爆弾を投下して帰還しようと密かに考えていた佐々木は、富永の「何度でも引き返してかまわない」という言葉に心をひかれた。富永はさらに「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしていただきたい」という言葉をかけたが、それを聞いた佐々木は「これほど温情と勇気がある軍司令官なら、自分の決死の計画も理解してもらえる」と意を強くした<ref>{{Harvnb|高木俊朗①|2018|p=490}}</ref>。富永は最後に「御国の柱たらんと生れ来て君らの姿今ぞ輝く」という詩を隊員に贈っている<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=382}}</ref>。
* {{Cite book |和書 |author=[[山岡荘八]] |year=1987 |title=小説 太平洋戦争⑥ |publisher=講談社 |series=講談社文庫 |isbn=978-4061950979 |ref={{SfnRef|山岡荘八⑥|1987}}}}
* 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』1996年。
* {{Cite book |和書 |author=[[読売新聞社]]編 |year=2011 |title=昭和史の天皇 2 - 和平工作の始まり |publisher=中央公論新社|series=昭和史の天皇2 |isbn=978-4122055834 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇2|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1971 |title=昭和史の天皇 11 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇11 |asin=B000J9HYBA |ref={{SfnRef|昭和史の天皇11|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1971 |title=昭和史の天皇 12 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇12 |asin=B000J9HYB0 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇12|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1971 |title=昭和史の天皇 13 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇13 |asin=B000J9HYAQ |ref={{SfnRef|昭和史の天皇13|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }}
* {{Cite book|和書|title=[歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.53「アメリカの空母」|publisher=学研|year=2006|month=2|series=歴史群像53|isbn=4-05-604263-2 |ref={{SfnRef|歴史群像53|2006}}}}