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'''千賀ノ浦 喜三郎'''(ちがのうら きさぶろう、本名:'''武林 喜三郎'''(たけばやし きさぶろう、旧姓:番匠)、生年不詳 - [[1889年]]頃{{要出典|date=2019年1月}})は、[[越前国]][[坂井郡]](現[[福井県]][[坂井市]])出身の元[[大相撲]][[力士]]。所属は[[千賀ノ浦部屋]]から[[阿武松部屋]]。最高位は西[[前頭]]筆頭。先代からの遺弟子[[雷電震右エ門]]を[[大関]]まで育てる。[[大関]][[大達羽左エ門|大達]]の養父。
 
== 人物 ==
幕内の少ない越前国出身。1858年11月には大関猪王山を倒し、1859年1月にはのちの横綱[[陣幕久五郎|陣幕]]と引分。三役には昇進できなかったが幕内を7年務め、大関[[雲龍久吉|雲竜]]に1回勝利、2回引き分け、[[鬼面山谷五郎|鬼面山]]にも勝利した。1866年3月引退。引退後は[[阿武松緑之助|阿武松]]の弟子を引き受け大関[[雷電震右エ門|雷電]]、[[高砂浦五郎 (初代)|高砂]]を育てた。高砂を後継者に考えていたが相撲会所を脱退してしまい、[[大達羽左エ門|大達]]を養子分にしている。1888年1月に組長として番付にあり、1889年5月の連名には見えずその頃死去したとみられる。弟子は大達が二枚鑑札で継承した。
 
== 略歴 ==
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* 松ヶ枝 喜三郎(まつがえ -)1855年2月場所? - [[1862年]]11月場所
* 千賀ノ浦 喜三郎(ちがのうら -)1863年7月場所 - 1866年3月場所(年寄としては1888年5月)
 
== 参考文献 ==
 
* 月刊相撲、1994年7月号「年寄名跡の代々 千賀ノ浦代々の巻」
 
== 関連項目 ==