「パウルス・ディアコヌス」の版間の差分

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「ランゴバルド史」と同系のものには、パウルスの''ローマの歴史(Historia Romana)''があり、これは[[エウトロピウス]]の{{仮リンク|略史|en|Breviarium}}の続編である。これは766年と771年の間にベネヴェントで完成した。この話は、パウルスが、アーデルペルガにエウトロピオスを読むよう推奨したことを裏付けている。彼女はエウトロピウスを読むことを試みたものの、異教徒の著述家が本質的なことについて何も書かず、364年の皇帝[[ヴァレリアヌス]]の登位で終わってしまっていることに不満をもらしたため、パウルスは、エウトロピウスと一緒に他の史料と最も重要歴史家や聖書の内容を織り交ぜて続きを書き、6巻を追加し、553年まで書かれることとなった。この業績は、中世において非常に人気があったが、現在でも西方におけるローマ帝国の終焉の早期の歴史的著作として価値がある。[[ヨハン・グスタフ・ドロイゼン|ドロイゼン]]により編集され''Monumenta Germaniae Historica. Auctores antiquissimi'', Band ii. (1879)として出版された{{sfn|Chisholm|1911|p=964}}。A. Crivellucciによる''Fonti per la storia d' Italia'', n. 51 (1914)にも収録されている{{citation needed|date=April 2016}}。
 
パウルスは、{{仮リンク|メッツの僧侶ス教区|en|Roman Catholic Diocese of Metz}}{{仮リンク|Angilram|en|Angilram}}の要望で766年までを書き、最初の著作は[[アルプス]]の北での最初の著作となり、2013年に英訳が''Liber de episcopis Mettensibus''という題名で出版された。彼は多数の手紙や詩、碑文を書き、これらのうちには、ベネヴェント公アリキス2世のものや、多くのカロリング一族のものも含まれている。幾つかの手紙は「''ランゴバルド王国史(Historia Langobardorum)''」とともに、''モヌメンタ(Monumenta)''に収録されている。詩作と碑文は{{仮リンク|Ernst Dümmler|en|Ernst Dümmler}}が''Poetae latini aevi carolini'', Band&nbsp;i. (Berlin, 1881)の中に見出した。新しい材料が光をもたらしている。1908年にKarl Neffが編集し出版された、詩集の新版''Die Gedichte des Paulus Diaconus'' (Munich, 1908){{sfn|Chisholm|1911|p=965}}は、編集者に否定されているが、パウルスに帰せられるもっとも有名な詩が[[聖ヨハネ賛歌]]集に収められている。[[グイード・ダレッツォ]]が楽曲をつけた[[洗礼者ヨハネ]]の賛歌のメロディーは、以前は[[ホラティウス]]の''『カルミナ』抒情詩集({{仮リンク|Odes|en|Odes (Horace)}})''にも使われていた [[s:la<!--Latin-->:Carmina (Horatius)/Liber IV/Carmen XI|4.11]].{{sfn|Lyons|2007|p={{page number|date=April 2016}} }}。パウルスは碑文も書いていて、「{{仮リンク|Sextus Pompeius Festus|en|Sextus Pompeius Festus}}」''や''「{{仮リンク|De significatu verborum|en|De significatu verborum}}」''などが現存している。それらはカール大帝にささげられている{{citation needed|date=April 2016}}。
 
一方フランク王国では、パウルスはカール大帝から説教集の編纂を依頼された。彼はモンテ・カッシーノに帰還した後、編纂作業を行ない、説教集はフランク王国の教会で広く使われた。教皇[[グレゴリウス1世]] の生涯の記録は彼に帰せられている{{sfn|Chisholm|1911|p=965}}。彼はギリシア語著作「[[エジプトのマリア]]の生涯」のラテン語訳も行なっている{{citation needed|date=April 2016}}。