「ガッラ・プラキディア」の版間の差分

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417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは[[将軍]]コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。2人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、夫コンスタンティウスはホノリウスによって共同皇帝に任命されたが、東ローマ帝国はコンスタンティウスの皇帝称号を僭称として認めなかった。激怒したコンスタンティウスは軍団を組織して[[コンスタンティノープル]]へ攻め込もうとしたが、遠征の準備が整う前に死亡した。そのためプラキディアは西側では[[アウグスタ]]とされ、東側ではアウグスタの僭称者とされた。
 
コンスタンティウスが死ぬと、今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。423年にホノリウスが死ぬと、西ローマ帝国では{{仮リンク|[[ヨハンネス|en|Joannes}}]]が皇帝に即位した。しかし東ローマ帝国の[[テオドシウス2世]]が、ゲルマン人の将軍アスパルに命じて西ローマ帝国を襲撃させ、皇帝ヨハンネスや西ローマ帝国の主だった高官らは425年7月までに概ね殺害された。テオドシウス2世は同年10月23日にプラキディアの幼い息子[[ウァレンティニアヌス3世]]を自身の傀儡として西方正帝の座に据えた。
 
彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、即位の経緯からプラキディアとウァレンティニアヌス3世は西ローマ帝国の人々から憎悪の対象とされていた。彼女に忠誠を誓う将軍が死んだり蛮族出身の[[フラウィウス・アエティウス]]になびいたりするにつれ、帝国の政治はアエティウスの手に落ち、アエティウスは[[パトリキ|ローマ貴族]]となり後には[[執政官]]ともなった。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保ったが、西側に支持者のいないプラキディアは、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア|ホノリア]]を元老院議員と結婚させることで元老院に取り入ろうとした。しかし、この企みは失敗し、かえって事態を悪化させることになった。450年の春、ホノリアはフン族の指導者アッティラに手紙と指輪を送り、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので自分を救い出してほしい、と助けを求めたのである。これによりアッティラは、ホノリアの手紙を「合法的な」要請として、狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けた。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラによる略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。プラキディアが死ぬと西ローマ帝国の人々の憎悪はウァレンティニアヌス3世へと集中した。後にウァレンティニアヌス3世が教会前の広場で暗殺されたとき、その場に居合わせた西ローマ帝国の人々のなかに皇帝を助けようとする者は誰もいなかった。
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