「渋川玄耳」の版間の差分

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[[日露戦争]]で従軍法務官として満州に出征した際、[[東京朝日新聞]]特派員の[[弓削田精一]]と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ評判を呼ぶ。弓削田の推薦で熊本出身の[[池辺三山]]主筆に請われ、[[1907年]](明治40年)3月東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の[[口語体]]化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図る。「取材法」や「記者養成システム」を、現在につながる方法に革新。
 
熊本時代の知己であった[[夏目漱石]]を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、校正係だった[[石川啄木]]を抜擢して『[[朝日歌壇]]』を創設。啄木の歌集『[[一握の砂]]』は、藪野椋十の筆名で序文を執筆している。
 
[[1910年]](明治43年)中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある[[杉村楚人冠]]とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた。