「ママス&パパス」の版間の差分

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1960年代初め、[[キャス・エリオット]]が所属していたフォークバンド「ビッグ・スリー」と、デニー・ドハーティが所属していたバンド「ハリファックス・スリー」のメンバーが合流し、「マグワンプス」が結成された。このバンドはアルバム発表も出来ないまま解散し(一部のメンバーは[[ラヴィン・スプーンフル]]を結成)、エリオットは[[カリフォルニア州]]でジャズ・シンガーとしての活動を始め、ドハーティはジョンとミッシェルのフィリップス夫妻が所属するフォークバンド「ニュージャーニーメン」に参加した。このニュージャーニーメンはやがてフォークロックへと姿勢を変換し、カリフォルニアに活動の場を動かした。そこで再びエリオットと合流し、[[1965年]]にママス&パパスは結成される。
 
[[1965年]]11月、『青空を探せ[[:en:Go Where You Wanna Go|Go Where You Wanna Go]]でデビュー。同年12月、フィリップス夫妻によって書かれた「[[夢のカリフォルニア (曲)|夢のカリフォルニア]]」を発表。同曲は全米4位の大ヒットとなった。3枚目のシングル「[[マンデー・マンデー]]」は1位にまで昇り、ファースト・アルバム『夢のカリフォルニア(原題''If You Can Believe Your Eyes and Ears'')』もロング・ヒット。
 
だが、絶頂の最中に、ミシェル・フィリップスとデニー・ドハーティの不倫が発覚し、[[1966年]]、ミシェルは夫のジョンに追い出される形でグループを脱退する。しかし、適当な代役が見つからなかったため、ミシェルは結局すぐに復帰して、ジョンと寄りを戻した。その後は、1966年発売のシングル「[[アイ・ソー・ハー・アゲイン]]」が全米5位、この曲を収録したセカンド・アルバム『The Mamas & The Papas』も全米4位まで昇った。
 
[[1967年]]2月発売のサード・アルバム『Deliver』が全米2位を記録。このアルバムからは「愛する君に(''Dedicated to the One I love'')」が全米全英共に2位と大ヒット、「クリーク・アリー」も全米最高5位の記録を収めた。同年[[6月16日]]から3日間開催された[[モンタレー・ポップ・フェスティバル]]に出演。ジョンはフェスティバルのテーマソング的役割を果たす「[[花のサンフランシスコ]]」を書き上げ、「ジャーニーメン」時代の同僚の[[スコット・マッケンジー]]が歌ったシングルは全米4位を記録した<ref>[http://www.billboard.com/charts/hot-100/1967-07-01 Music: Top 100 Songs | Billboard Hot 100 Chart | THE WEEK OF JULY 1, 1967]</ref>。
 
同年、「[[朝日をもとめて]]」「悲しみを幸せに(原題''[[:en:Glad to Be Unhappy|Glad to Be Unhappy]]'')」などがヒット。しかしジョンとミシェルの夫婦仲は再び亀裂が生じ始めていた。そして[[1968年]]になると、グループは完全に崩壊し、各メンバーはそれぞれ個人的な活動を始めた。契約上制作しなければならなかった最後のアルバム『People Like Us』は、メンバーが各自で収録した曲をまとめて発売された。
 
== 関係者のその後 ==