「両角良彦」の版間の差分

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以後、鉱山局長時代の1967年10月に石油開発公団([[石油公団]])設立。官房長、企業局長を経て、1971年、[[第3次佐藤内閣]]時代に通産事務次官に就任。田中が[[通産大臣]]時代から、部下であった[[豊島格]]([[資源エネルギー庁]]長官)らと共に、[[田中角栄]]、[[田中清玄]]らと日本独自の資源獲得の意味合いから[[インドネシア]]の[[石油]]利権獲得に動いたことでも知られている<ref>聞き手大須賀端夫『田中清玄自伝』([[文藝春秋]]、1993年9月 ISBN 4163475508。のち[[ちくま文庫]]、2008年5月8日 ISBN 4480424407)</ref>。1975年、[[電源開発]]総裁。
 
[[私の履歴書]]誌上にて、特振法案、[[石油備蓄|国際石油備蓄基地]]、[[CANDU炉|キャンドゥ重水炉]]([[CANDU炉]])の頓挫が心残りであったことも併せて語っている。「資源派のドン」と云われる所以である。また[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の研究者としても知られ、在パリの[[伊吹迪人]]から資料をわざわざ取り寄せるなど書き上げた『1812年の雪 モスクワからの敗走』([[朝日新聞社]])で[[日本エッセイストクラブ賞]]受賞<ref>両角良彦『1812年の雪 モスクワからの敗走』 「あとがき」の章( [[筑摩書房]]、1980年。のち[[講談社文庫]]、[[朝日選書]])</ref>。他に『反ナポレオン考 -時代と人間』(朝日新聞社)など。
 
また[[城山三郎]]原作の『[[官僚たちの夏]]』の牧のモデル。あだ名は「官僚たちの夏」で登場した「西洋カミソリ」、他に「カミソリ両角」、「両(もろ)さん」など。女流歌人の[[今井邦子]]は叔母にあたる。