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=== 相馬事件 ===
明治12年([[1879年]])4月14日、親族らは精神的な病気を理由に[[宮内省]]に誠胤の自宅監禁を願い、翌日許可された。これ親族対し、明治16年([[1885年]])12月10日、旧中村藩士[[錦織剛清]]は、財産横領をはかる異母弟[[相馬順胤]]らの不当な監禁であるとして誠胤の解放などを申し入れた。もともと怒りっぽわゆる[[相馬事件]]の始まり性質である。錦織は相馬家を不法監禁・財産横領で告訴し。一方相馬家も弁護士・[[星亨]]を雇い明治9年ころより精神に変調があり錦織細事に疑心誣告罪で告訴起こて憤怒乱行するようになっという<ref name=sakaki/>
 
これに対し、明治16年([[1885年]])12月10日、旧中村藩士[[錦織剛清]]は、財産横領をはかる異母弟[[相馬順胤]]らの不当な監禁であるとして、誠胤の解放などを申し入れた。いわゆる[[相馬事件]]の始まりである。錦織は相馬家を不法監禁・財産横領で告訴した。一方、相馬家も弁護士・[[星亨]]を雇い、錦織を誣告罪で告訴した。
明治25年(1892年)2月22日、訴訟の泥沼化する中で誠胤は死去した。享年41({{没年齢2|1852|9|18|1892|2|22}})。錦織は、誠胤の死を毒殺であると訴え、遺体解剖が行われた。しかし解剖の結果、毒殺でないことが判り、錦織は誣告罪で重禁錮4年の刑が確定するに至った。なお、明治17年([[1884年]])7月7日、相馬誠胤は子爵になっており、爵位は実弟・順胤に継承された。同年12月、従四位に昇叙。
 
誠胤は明治17年には独り言を発するようになり、「人を殺す」などと言い、[[榊俶]]、[[ベルツ]]らが診断した明治24年には、何事もなく過ごしているかと思えば突然挙動が活発になり、音声高く多弁となり、夜間には天井から難詰する男女の声がするなど幻聴があり、咽頭部に苦悶を覚え、足踏みをし、眼光鋭くなり、看護人らに暴行を加えることもあったという<ref name=sakaki>[https://sanato.info/greetings/research/rekisi3/ わが国の精神医療の歴史 Ⅲ 相馬事件 後藤新平]浦和神経サナトリウム</ref>。
 
明治25年(1892年)2月22日、訴訟の泥沼化する中で誠胤は死去した。享年41({{没年齢2|1852|9|18|1892|2|22}})。錦織は、誠胤の死を毒殺であると訴え、遺体解剖が行われた。しかし解剖の結果、毒殺でないことが判り、錦織は誣告罪で重禁錮4年の刑が確定するに至った。死因は[[糖尿病]]とされている<ref>[https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=19 資料 相馬事件について]公益社団法人 日本精神神経学会、2015年1月28日</ref>。なお、明治17年([[1884年]])7月7日、相馬誠胤は子爵になっており、爵位は実弟・順胤に継承された。同年12月、従四位に昇叙。
 
== 系譜 ==