「米原綱寛」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
7行目:
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[慶長]]18年([[1613年]])
| 改名 = 綱寛可春斎(号)
| 別名 = 平内兵衛
| 諡号 =
16行目:
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[尼子晴久]][[尼子義久|義久]][[毛利元就]]
| 藩 =
| 氏族 = [[米原氏]]
| 父母 = 父:[[米原綱広]]
| 兄弟 =
| 妻 =
34行目:
米原氏居城である[[高瀬城]]は、[[出雲国]]原手郡の平野部を領し、東には[[大西氏]]居城[[大西城]]、揖斐伊川上流の[[三刀屋城]]・[[三沢城]]、揖斐伊川下流にある[[鳶ヶ巣城]]・[[平田手崎城]]等の城と共に、尼子十旗として名を連ねる強固な城であった。綱寛は幼くして眉目秀麗であり、主君・[[尼子晴久]]に寵愛されており、幼少から晴久の側近として重用されていたという。[[天文 (日本)|天文]]9年([[1540年]])には[[安芸国]]の[[毛利氏]]攻め([[吉田郡山城の戦い]])に参加している。
 
ところが、[[永禄]]3年([[1560年]])に晴久が急死し、これにより勢力を衰退させた尼子氏は[[尼子義久]]の時には逆に毛利氏の侵攻を受けるようになる。永禄5年([[1562年]])、[[高瀬城]]主となった綱寛は、出雲侵攻を開始した毛利氏へと下っている。永禄8年([[1565年]])の[[月山富田城]]攻め([[月山富田城の戦い]])には、[[小早川隆景]]に属している。綱寛は使者として[[立原久綱]]と交渉している。
 
永禄9年([[1569年]])、尼子[[新宮党]]出身の[[尼子勝久]]を擁する尼子再興軍が挙兵。北九州を巡って毛利氏と対決していた[[豊後国]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]は綱寛に「勝久を援助せよ」と密使を使わし、[[毛利元就]]は再興軍討伐の為に綱寛を出雲へ帰国させている。これに対し綱寛は居城である高瀬城へと籠城し再興軍に参加した。