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== 来歴 ==
[[1969年]][[3月]]に騎手免許を取得し、[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・梶与三男厩舎からデビュー。同期には[[楠孝志]]・[[須貝四郎]]・[[田村正光]]・[[内田国夫]]・[[西浦勝一]]がいる。初騎乗は[[3月1日|同1日]]の[[中京競馬場|中京]]第1競走4歳未勝利・ヒヨシエース(17頭中13着)、[[6月7日]]の[[京都競馬場|京都]]第1競走アラブ系3歳・ヒヨシプリンスであった。
[[1969年]][[3月]]に騎手免許を取得し、[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・梶与三男厩舎からデビュー。同期には[[楠孝志]]・[[須貝四郎]]・[[田村正光]]・[[内田国夫]]・[[西浦勝一]]がいる。初騎乗は[[3月1日|同1日]]の[[中京競馬場|中京]]第1競走4歳未勝利・ヒヨシエース(17頭中13着)、[[6月7日]]の[[京都競馬場|京都]]第1競走アラブ系3歳・ヒヨシプリンスであった。1年目は8勝(平地7勝・障害1勝)をマークし、新人では楠の26勝、田村の25勝、須貝の11勝に続く成績であった。2年目の[[1970年]]は28勝と勝ち星を増やしたほか、初勝利時のパートナー・ヒヨシプリンスで[[タマツバキ記念 #タマツバキ記念(秋)|タマツバキ記念(秋)]]を制して重賞初制覇を達成。[[1973年]]には[[阪神障害ステークス #阪神障害ステークス(秋)|阪神障害ステークス(秋)]]・カネロンドで重賞2勝目を挙げ、本格化前の[[グランドマーチス]]を6着に下している。[[1974年]]に[[伊藤修司]]厩舎へ移籍すると、翌[[1975年]]には修司の娘と結婚し、姓を「上野」から「伊藤」に変更。同年からは平地での騎乗に専念し、伊藤厩舎の[[主戦騎手]]として活躍馬の手綱を任され、重賞5勝を挙げた[[1977年]]には優秀騎手賞を受賞。5勝中3勝は[[インターグシケン]]・ラブリトウショウと共に「'''関西3羽ガラス'''」といわれた[[バンブトンコート]]で挙げたものであり、[[函館2歳ステークス|函館3歳S]]・[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳S]]を連勝して挑んだ[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]で[[競馬の競走格付け|GI]]級レース初制覇を飾る。実況していた[[杉本清]](当時・[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[アナウンサー]])はレース後に「'''これが午年に送る関西の新しい星です'''」と謳い、関東の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]で無敗のタケデンを敗った[[ギャラントダンサー]]を抑え、その年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬 #優駿賞時代|優駿賞最優秀3歳牡馬]]を受賞。[[1978年]]の[[クラシック (競馬)|クラシック]]の最有力候補に踊り出るも、レース翌日に右前脚の剥離骨折が判明して休養を余儀なくされ、三冠の第一関門である[[皐月賞]]を回避せざるを得なくなった。[[東京優駿]]では1番人気に推されたが、終始好位を追走も直線残り1ハロンで脚が止まって4着であった。[[1980年]]には自己最多の40勝を挙げて2度目の優秀騎手賞を受賞し、「[[華麗なる一族 (競馬)|華麗なる一族]]」の血脈である[[イットー]]の仔である[[ハギノトップレディ]]で[[桜花賞]]を逃げ切り、GI級レース2勝目・[[八大競走]]初制覇を達成。[[エリザベス女王杯]]も逃げ切って牝馬二冠を達成し、その年の[[JRA賞最優秀3歳牝馬 #優駿賞時代|最優秀4歳牝馬]]を受賞。シルクスキーとのコンビでは[[京都大賞典]]を強烈な末脚で差し切り、[[目黒記念 #目黒記念(秋)|目黒記念(秋)]]では[[カツラノハイセイコ]]の2着に粘る。前年の[[優駿牝馬|オークス]]馬・[[アグネスレディー]]と共に[[JRA賞最優秀4歳以上牝馬 #優駿賞時代|最優秀4歳以上牝馬]]の最有力候補となり、9年ごとに牝馬が優勝するという奇妙な周期があった[[第82回天皇賞]]ではその周期を継承するのではと3番人気に抜擢される。レースでは同じく牝馬でも11頭中8番人気と忘れられた存在であった[[プリテイキャスト]]の大逃げを許し、後方から動けず10着と大敗。最優秀4歳以上牝馬もプリテイキャストに100票以上の差を付けられ、選出されなかった。[[1982年]]からはハギノトップレディの弟・[[ハギノカムイオー]]とのコンビで活躍するが、クラシックは皐月賞16着、ダービー断念、[[菊花賞]]15着と惨敗に終わる。[[1983年]]は[[スワンステークス]]で母・イットーとの親子制覇、[[宝塚記念]]で単騎逃げを打って日本レコード勝ち、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]はスワンSに次ぐ親子制覇、ハギノトップレディとの姉弟制覇を成し遂げる。[[1984年]]からは[[騎手 #フリー騎手|フリー]]となり、[[ニシノライデン]]とのコンビで[[京都新聞杯]]を制し、菊花賞では[[シンボリルドルフ]]を負かしに行く競馬で見せ場を作っての3着と健闘。数々の活躍馬に跨がって安定した成績を挙げていたが、私生活では妻と不和になり、[[1987年]]に離婚。これが主因となって義父であった修司とも縁を切る形となり、姓名も旧姓に戻す<ref>上野は後に別の女性と再婚したが、引き続き上野姓のままである。</ref>。絶縁を機に成績も落ち始め、[[1988年]]の[[中日新聞杯]]・トキノオリエントが最後の重賞勝利となる。[[1991年]]には5勝と2桁勝利が21年連続でストップし、[[1992年]]から[[1994年]]は3年連続2桁で10勝台をマーク。[[1995年]]からは[[西橋豊治]]厩舎所属となり、[[1996年]]には[[浅見国一]]厩舎に移籍。[[1997年]]には再度フリー騎手となったが、8勝→3勝→3勝と成績は低迷。1997年[[11月9日]]の[[福島競馬場|福島]]第2競走4歳未勝利・マンジュデンリッチが最後の勝利、[[1998年]][[1月10日]]の京都第2競走4歳未勝利・レインボーナイトが最終騎乗となり、同年[[1月20日]]付で現役を引退<ref name=keibabook>{{Cite web|date=|url=https://www.keibado.ne.jp/keibabook/980202/itwnp.html#08|title=ニュースぷらざ|publisher=ケイバブック|accessdate=2015-06-07}}</ref>。
 
1年目は8勝(平地7勝・障害1勝)をマークし、新人では楠の26勝、田村の25勝、須貝の11勝に続く成績であった。2年目の[[1970年]]は28勝と勝ち星を増やしたほか、初勝利時のパートナー・ヒヨシプリンスで[[タマツバキ記念 #タマツバキ記念(秋)|タマツバキ記念(秋)]]を制して重賞初制覇を達成。[[1973年]]には[[阪神障害ステークス #阪神障害ステークス(秋)|阪神障害ステークス(秋)]]・カネロンドで重賞2勝目を挙げ、本格化前の[[グランドマーチス]]を6着に下している。
 
[[1974年]]に[[伊藤修司]]厩舎へ移籍すると、翌[[1975年]]には修司の娘と結婚し、姓を「上野」から「伊藤」に変更。同年からは平地での騎乗に専念し、伊藤厩舎の[[主戦騎手]]として活躍馬の手綱を任され、重賞5勝を挙げた[[1977年]]には優秀騎手賞を受賞。5勝中3勝は[[インターグシケン]]・ラブリトウショウと共に「'''関西3羽ガラス'''」といわれた[[バンブトンコート]]で挙げたものであり、[[函館2歳ステークス|函館3歳S]]・[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳S]]を連勝して挑んだ[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]で[[競馬の競走格付け|GI]]級レース初制覇を飾る。実況していた[[杉本清]](当時・[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[アナウンサー]])はレース後に「'''これが午年に送る関西の新しい星です'''」と謳い、関東の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]で無敗のタケデンを敗った[[ギャラントダンサー]]を抑え、その年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬 #優駿賞時代|優駿賞最優秀3歳牡馬]]を受賞。[[1978年]]の[[クラシック (競馬)|クラシック]]の最有力候補に踊り出るも、レース翌日に右前脚の剥離骨折が判明して休養を余儀なくされ、三冠の第一関門である[[皐月賞]]を回避せざるを得なくなった。[[東京優駿]]では1番人気に推されたが、終始好位を追走も直線残り1ハロンで脚が止まって4着であった。
 
[[1980年]]には自己最多の40勝を挙げて2度目の優秀騎手賞を受賞し、「[[華麗なる一族 (競馬)|華麗なる一族]]」の血脈である[[イットー]]の仔である[[ハギノトップレディ]]で[[桜花賞]]を逃げ切り、GI級レース2勝目・[[八大競走]]初制覇を達成。[[エリザベス女王杯]]も逃げ切って牝馬二冠を達成し、その年の[[JRA賞最優秀3歳牝馬 #優駿賞時代|最優秀4歳牝馬]]を受賞。シルクスキーとのコンビでは[[京都大賞典]]を強烈な末脚で差し切り、[[目黒記念 #目黒記念(秋)|目黒記念(秋)]]では[[カツラノハイセイコ]]の2着に粘る。前年の[[優駿牝馬|オークス]]馬・[[アグネスレディー]]と共に[[JRA賞最優秀4歳以上牝馬 #優駿賞時代|最優秀4歳以上牝馬]]の最有力候補となり、9年ごとに牝馬が優勝するという奇妙な周期があった[[第82回天皇賞]]ではその周期を継承するのではと3番人気に抜擢される。レースでは同じく牝馬でも11頭中8番人気と忘れられた存在であった[[プリテイキャスト]]の大逃げを許し、後方から動けず10着と大敗。最優秀4歳以上牝馬もプリテイキャストに100票以上の差を付けられ、選出されなかった。
 
[[1982年]]からはハギノトップレディの弟・[[ハギノカムイオー]]とのコンビで活躍するが、クラシックは皐月賞16着、ダービー断念、[[菊花賞]]15着と惨敗に終わる。[[1983年]]は[[スワンステークス]]で母・イットーとの親子制覇、[[宝塚記念]]で単騎逃げを打って日本レコード勝ち、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]はスワンSに次ぐ親子制覇、ハギノトップレディとの姉弟制覇を成し遂げる。
 
[[1984年]]からは[[騎手 #フリー騎手|フリー]]となり、[[ニシノライデン]]とのコンビで[[京都新聞杯]]を制し、菊花賞では[[シンボリルドルフ]]を負かしに行く競馬で見せ場を作っての3着と健闘。数々の活躍馬に跨がって安定した成績を挙げていたが、私生活では妻と不和になり、[[1987年]]に離婚。これが主因となって義父であった修司とも縁を切る形となり、姓名も旧姓に戻す<ref>上野は後に別の女性と再婚したが、引き続き上野姓のままである。</ref>。
 
絶縁を機に成績も落ち始め、[[1988年]]の[[中日新聞杯]]・トキノオリエントが最後の重賞勝利となる。[[1991年]]には5勝と2桁勝利が21年連続でストップし、[[1992年]]から[[1994年]]は3年連続2桁で10勝台をマーク。
 
[[1995年]]からは[[西橋豊治]]厩舎所属となり、[[1996年]]には[[浅見国一]]厩舎に移籍。[[1997年]]には再度フリー騎手となったが、8勝→3勝→3勝と成績は低迷。1997年[[11月9日]]の[[福島競馬場|福島]]第2競走4歳未勝利・マンジュデンリッチが最後の勝利、[[1998年]][[1月10日]]の京都第2競走4歳未勝利・レインボーナイトが最終騎乗となり、同年[[1月20日]]付で現役を引退<ref name=keibabook>{{Cite web|date=|url=https://www.keibado.ne.jp/keibabook/980202/itwnp.html#08|title=ニュースぷらざ|publisher=ケイバブック|accessdate=2015-06-07}}</ref>。
 
引退後は[[須貝彦三]]厩舎の[[調教助手]]として活躍した<ref name=keibabook/>。