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鄧艾が成都に至ると、劉禅が太子・諸王および群臣六十余人を引き連れ、手を後ろに縛り棺をかついで軍門に出頭してきたので、鄧艾は節を執り縛を解いて棺を焼き払い、彼らを受け入れて罪を許した。鄧艾は略奪をせず、降伏者を元の仕事に復帰させたので、蜀の民に称えられた。また、魏朝廷の許可を得ず独断で、劉禅を行驃騎将軍とし、太子を奉車都尉、諸王を駙馬都尉とした。蜀の重臣たちもそれぞれ元の官位に従い魏の官職を授けたり、ある者は鄧艾の属官となった。師纂に益州刺史を、隴西太守牽弘らに蜀中の諸郡太守を兼任させた。また、綿竹で[[京観]]を築き、戦功の記念とした。その後、戦死した魏軍の将兵を(一度は京観にした)蜀兵の遺体と一緒に埋葬している。
 
鄧艾は大層自分の手柄を自慢し、蜀の[[士大夫]]に向かって「諸君は私に会ったお陰で、今日の日を迎えられるのだ。もし(後漢初期に[[成家_(王朝)|]]を攻め滅ぼした)[[呉漢]]のような男に出会っていたならば、とっくに破滅していただろう。」<ref>呉漢は蜀の攻略時、[[公孫述]]・[[延岑]]の一族を皆殺しにしただけでなく、配下の兵に掠奪を許し宮室を焼いたため、[[光武帝]]から譴責されている。</ref>といった。また「姜維は彼なりに当代の英雄であるのだが、私と遭遇したために追い詰められたのだ。」とも言った。有識者は皆これらの発言を嘲笑したという。
 
蜀討伐の功績により、鄧艾は[[太尉]]に任命され、二万戸を加増された。すでに70歳に近い老年であった。二人の子も亭侯に封じられ、千戸の領地を与えられた。