「藤原懐平」の版間の差分

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長保5年([[1003年]])[[正三位]]・[[春宮坊|春宮権大夫]]に叙任される。春宮権大夫(のち大夫)への任官を通じて、[[春宮]]・居貞親王と密接な関係が作られることとなり、[[寛弘]]8年([[1011年]])居貞親王の[[即位]]([[三条天皇]])に伴って[[従二位]]に昇叙されると、[[長和]]2年([[1013年]])権中納言、長和4年([[1015年]])[[正二位]]と、三条朝では一転して急速な昇進を果たした。
 
執政の[[左大臣]]・[[藤原道長]]との不和もあって三条天皇は小野宮流の懐平や[[小一条流]]の[[藤原通任]]を側近とし、懐平は小一条流出身の[[皇后]]・[[藤原せい子|娍子]]に対しても[[皇后宮職|皇后宮大夫]]となって近侍した。このためか、[[長和]]元年([[1012年]])に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられている。一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた[[藤原妍子|妍子]]の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと日記に記しており、懐平は温厚な人柄で敵を作らずに交際していたと見られる。
 
その後、三条天皇と道長の関係が、天皇の体調の悪化に伴う進退と絡んで重大な局面を迎えると、天皇は[[相撲節会]]の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、懐平を側近として頼りとしている様子が窺える。しかし、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたらしく、長和5年([[1016年]])三条天皇の[[退位]]後に、兼帯していた皇后宮大夫および右衛門督を辞した。翌長和6年([[1017年]])4月18日薨去。[[享年]]65。最終[[官位]]は権中納言正二位。なお、懐平が没して1ヶ月たたない5月上旬に三条上皇も[[崩御]]している。