「蘇我蝦夷」の版間の差分

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生年不明、が一般的。
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| 画像説明 =
| 時代 = [[飛鳥時代]]
| 生誕 = 不明[[586年]]?<ref>『日本書紀』巻第二十二、推古十八年(610年)の記事に朝廷の大夫(まえつぎみ)の一人として初めて現れる蘇我蝦夷の年齢は、『[[扶桑略記]]』の記述によると25歳となっている。</ref>
| 死没 = [[斉明天皇|皇極天皇]]4年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[645年]][[7月11日]])
| 改名 =
| 別名 = 豊浦大臣、武蔵大臣
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[[推古天皇]]末年から[[斉明天皇|皇極天皇]]の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の[[崩御]]後、[[皇位継承]]者の選定に当たり、(日本書紀では)そのような発言はなかったものの「推古天皇の遺勅」であるとして田村皇子を[[舒明天皇]]として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と[[山背大兄王]]<ref>大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は『日本書紀』にはなく、単なる皇子とする者もいる</ref>がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の[[境部摩理勢]]を殺害した。『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、[[皇族]]や諸[[豪族]]との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
 
舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また、子である[[蘇我入鹿]]に紫冠([[冠位十二階]]最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と擬し、その弟を[[物部大臣]]とし、屋敷を宮上の門(みかど)と呼ばせるなど、自らを大王に擬する行為があった。一方で子・入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自に追いこんだ。『日本書紀』は、蝦夷はこの入鹿の行為に激怒し、嘆いたと伝えている。
 
皇極天皇4年([[645年]])に天皇の御前で入鹿が[[暗]]されると、蝦夷の許に与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。享年60。なお、『日本書紀』によれば、『[[天皇記]]』はこの時に失われ『[[国記]]』は[[船恵尺]]が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。
 
大津(現在の[[泉大津市]])に別宅があったという<ref>『日本書紀』皇極天皇三年「豊浦大臣大津宅倉」</ref>。
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== 名称 ==
『[[日本書紀]]』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。[[蝦夷]]の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である([[小野毛人]]や[[佐伯今毛人]]、[[鴨蝦夷]]らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は[[侮蔑#蔑称|蔑称]]であり、[[毛人]]が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。
 
『[[紀氏家牒]]』によると、家の蔵に武器を揃えていたので武蔵大臣とも呼ばれたとされる。
 
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== 物部大臣 ==
'''物部大臣'''は、[[飛鳥時代]]の[[豪族]]。[[蘇我蝦夷]]の子。[[蘇我入鹿]]の弟。実名不詳。蝦夷により入鹿が大臣とされた際、その弟を「物部大臣」としたとされる
実名不詳。蝦夷により入鹿が大臣とされた際、その弟を「物部大臣」としたとされる。
 
== 脚注 ==