「本多重次」の版間の差分

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=== 一筆啓上 ===
日本一短い手紙として有名な「'''一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ'''」の一文は、重次が[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]の陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重)のことである。なお、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である<ref>{{Cite book|和書|author=磯田道史|authorlink=磯田道史|title=殿様の通信簿|year=2006|publisher=朝日新聞社}}</ref>。現在、丸岡城内には「一筆啓上碑」があり、福井県[[坂井市]](2005年に[[丸岡町]]、[[三国町]]、[[春江町]]、[[坂井町]]と合併して市制を敷く)では旧丸岡町時代の[[平成]]5年([[1993年]])から「日本で1番短い手紙」を募集している。
 
また重次は頑固で他人に厳しい人物と見られがちだが、この手紙は唯一の息子である仙千代を心配し、自らが留守中に家中を取り仕切る妻に「火事に気を付けるように、使用人への徹底を改めてするように、そして5人の子の内、男子は仙千代だけだから病気に気を付け、武士にとって戦場で命を預ける馬の世話を怠りなくせよ」と妻子を気遣う優しさが見え隠れしている<ref>{{Cite book|和書|author=楠戸義昭|title=戦国武将名言録|publisher=PHP研究所|year=2006|page=341}}</ref>。なお、後に仙千代は、[[豊臣秀吉]]への人質として秀吉の養子となった[[結城秀康]]の小姓として大坂に送られたが、その翌年に重次は仙千代と甥の源四郎(後の[[本多富正]])を無断で交代させた。重次の行動は、実子の安否と出世を懸念した(秀康は実父・家康に疎まれていたので先が危ぶまれていた)とも、不遇の兄の子を出仕させその出世を望んだとも解釈できるが、この行動が秀吉の怒りに触れ、重次は家康によって上総国古井戸(小糸)(現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられている。さらに、結城秀康が越前藩一国68万石を与えられると、源四郎こと富正は[[附家老]]として3万9千石を与えられた。当時、仙千代こと成重は幕臣として5,000石を与えられていたが、慶長18年(1613年)に、秀康の子・[[松平忠直]]の附家老として、越前丸岡4万石を与えられる。一説には、重次が送り込んだ甥の出世を見て、実子を福井藩にねじ込んだ(なので新参なのに石高が富正より少し高い)とも言われている。