「アッピア街道」の版間の差分

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アッピア旧街道の当初のルートはローマの[[セルウィウス城壁]]出口の一つ[[カペーナ門]]([[カラカラ浴場]]付近)を起点とし、[[アリッチャ]]、アッピウスのフォルム、[[テッラチーナ]]、[[フォンディ]]、[[フォルミア]]、[[ミントゥルノ]](ミントゥルナエ)、[[モンドラゴーネ]](シヌエッサ)、[[カプア|カープア]]までであった<ref>{{Cite book|和書 |author = [[小林登志子]] |year = 2015 |title = 文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ |publisher = [[中央公論新社]] |page = 105 |isbn = 978-4-12-102323-0}}</ref>。
 
[[紀元前2世紀|紀元前190年]]、街道は[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]](現ベネヴェント)や[[ヴェノーザ|ウェヌシア]](現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代紀元前244年には[[ターラント|タレントゥム]](現ターラント)と[[ブリンディジ|ブルンディシウム]](現ブリンディジ)まで延長された。
 
また、途中の[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]]からブルンディシウム(現ブリンディジ)を直線で結ぶ{{仮リンク|トライアナ街道|en|Via Traiana}}([[トラヤヌス]]のアッピア街道)が109年に造られている。
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街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている([[ヴェッレトリ]]近辺など)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教の[[カタコンベ]]を多数見ることができる。
 
ローマ布教に際し皇帝[[ネロ]]による弾圧で追われる身となった聖[[ペトロ]]が、アッピア街道の中途で[[イエス]]の幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine, quo vadis ?)」と尋ねたところとしても知られる。現在その場所には[[ドミネ・クォ・ヴァディス教会]]が建てられている。このとき「もう一度十字架にかけられるためにローマへ」というイエスの答えを聞いたペトロは己のすべきことを悟って再度ローマへ赴き、逮捕されて逆さ十字架の刑に処されたとされる。刑場の跡地は現在の[[バチカン]]であり、墓所は[[サン・ピエトロ大聖堂]]となっている。
 
[[サン・セバスティアーノ門]]を起点とし、[[ドミネ・クォ・ヴァディカ教会]]の地点より10キロほどの緑地帯が続く「旧アッピア街道(ヴィア・アッピア・アンティカ)」は、ローマ帝国時代の石畳と松並木([[イタリアカサマツ]])の風景、街道周囲の遺跡が今も残る[[アッピア街道州立公園]]として整備されている。並行して「新アッピア街道(ヴィア・アッピア・ヌオヴァ)」という高速道路も存在し、[[ローマ・チャンピーノ空港]]を経由して南東方向へと伸びている。[[チャンピーノ]]を過ぎたあたりで州立公園の旧道は終了し、新アッピア街道と合流して現代の道路の様相となる。
 
==マイルストーン==