「グレゴリオ暦」の版間の差分

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== 制定に至る背景 ==
それまでのグレゴリオの前[[ユリウス暦]]が採用されており、いた。これは紀元前45年に[[ユリウス・カエサル]]によって制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきたもので、その暦法は、暦年の平均日数を{{val|365.25}}日とした定義によっている。しかし、実際の[[太陽年]]は約{{val|365.24219}}日であるので、ユリウス暦日と実際の太陽年から得られる暦日とのずれは毎年蓄積される。この問題は、ユリウス暦を用いるローマ帝国領にキリスト教が広まると、思わぬ形で表面化することになっていく。
 
[[新約聖書]]において、[[イエス・キリスト]]の[[処刑]]と復活の記事は、ユリウス暦ではなく[[太陰太陽暦]]である[[ユダヤ暦]]に基づいて記述されており、イエスの処刑日は、[[ユダヤ教]]の[[過越し]]の日の前日すなわちニサン月14日([[ヨハネによる福音書]])または過越祭第一日目の同月15日([[共観福音書]])とある。このユダヤ暦ニサン月は[[春分]]の頃に来る太陰月であり、[[メソポタミア文明]]の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。このような状況において、ローマ帝国領に住むキリスト教徒としては、その最大の祝祭日の一つである[[復活祭]]を何時の期日に祝うのかが問題となった。
 
この点につき、初期の教会ではさまざまな方法が採用されていた。聖書の記述通りに、ユダヤ暦をそのまま持ち込んでニサン月15日に祝う教会もあった。しかしこの日は基本的に[[月齢]]で決まるので[[七曜|曜日]]は一定しない。そのため曜日の問題を重視して、ニサン月14日の満月の日の直後の[[日曜日]]を復活日とする教会もあった。他方で、エジプト暦の伝統を持つ[[アレクサンドリア教会|アレクサンドリアの教会]]では、[[ディオクレティアヌス紀元]]、[[コプト暦]]および[[メトン周期]]を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算し、春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とする方法を採用した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるからである。この方法を[[コンプトゥス]]という。