「大高忠雄」の版間の差分

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元禄14年(1701年)9月下旬、[[江戸]]急進派の[[堀部武庸]]らが大石良雄の御家再興運動中にそれを差し置いて吉良義央への仇討ちを強硬に主張して大石の江戸下向を迫った際には、鎮撫の使者として[[進藤俊式]]とともに江戸へ派遣されている(もっとも逆に安兵衛らの意見に同調して仇討ち急進派となってしまっている。大石良雄自らが江戸下向し、帰京した後に大高も一時帰京した)。元禄15年([[1702年]])7月、浅野長矩の弟[[浅野長広]]の[[広島市|広島]][[広島藩|浅野宗家]]への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となり、大石は[[京都]]円山での会議で仇討ちを決定し(円山会議)、大石は命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を実行することとしたが、この際にも同志のところを回る使者として選ばれたのはこの大高忠雄と[[貝賀友信]]であった。
 
元禄15年(1702年)9月18日、忠雄は江戸下向にあたり、豪商[[綿屋善右衛門]](赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より26両を借用。また遺作として『[[二ツの竹]]』を江戸下向直前に出版する。親交のあった[[水間沾徳]]や[[宝井其角]]などそうそうたる俳人が句をよせている。そして10月18日に主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下った。江戸では町人'''脇屋新兵衛'''(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人[[山田宗]]に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決める。
 
吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残した。