「奥村公延」の版間の差分

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== 来歴・エピソード ==
{{出典の明記|section=1|date=2013年8月2日 (金) 20:45 (UTC)|ソートキー=人2009年没}}
もともとは普通に勤め人をしていて、「このまま自分は淡々とした人生を送って行くんだろうなと思っていた」という。[[1955年]][[銀座]]にたまたま行きつけの飲み屋があり、ここの女性従業員が新劇劇団「[[近代劇場]]」のプロデューサーと知り合いだったことから、このプロデューサーからテレビ番組の『[[ダイヤル110番]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])での役探しを頼まれ、奥村を紹介したところ、これが俳優デビューとなった<ref name="hero max" />。「芝居の“し”の字も知らなかったし、役者になれるともなろうとも思っていなかったが、やってみると面白く、そのままこの世界に入ることになった」と語っている<ref name="hero max" />。
 
早速この劇団のプロデューサーに入団を申し込んだが、「とにかく食っていけませんよ」と念押しされた。独身だったので構わず入団したが、入ってみるとこの劇団は難しい芝居ばかりで、もっと大衆的なものを演りたかったことから2〜3カ月で辞めることになった<ref name="hero max" />。
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「近代劇場」退団後、いくつかの劇団を転々としたが、「最初に言われた通り、本当に食っていけなかった」という。その後、さまざまな劇団から呼ばれたり、事務所にかけもち所属してテレビに出たりという生活を続けた。[[河津清三郎]]らが所属していた「第一協団」に入ったこともあったが、「無名の役者を売るのは疲れる」と言われ、1年でクビになったこともあった<ref name="hero max" />。
 
この年、『[[ゴジラの逆襲]]』([[東宝]])に群衆役で出演。[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]から逃げ惑う役をもらい、うれしくて親戚に電話をしたが、劇場で観たところ、怪獣ゴジラとの対比で人間が小さすぎて、自分でもどこに写っているのかわからなかったという<ref name="hero max" />。
 
創生期の[[TBSテレビ|TBS]]のドラマに数多く関わり、[[飯島敏宏]]監督のもと、1961年の『[[月曜日の男]]』に多数ゲスト出演<ref name="hero max" />。TBSでは『[[ウルトラQ]]』や『[[ウルトラマン]]』など、[[ウルトラシリーズ]]([[円谷プロダクション|円谷プロ]])にも出演した<ref name="hero max" />。奥村は飯島について、「自由に演らせてくれる監督で、[[鈴木清順]]と同じく、役者のいいところを引き出してくれる。現場の雰囲気もとてもよく、印象に残っている」と語っている<ref name="hero max" />。達者な動きから、1967年の『[[ジャイアントロボ]]』(NET、([[テレビ朝日|NET]]・[[東映]])では、被り物をつけて宇宙怪物「吸血鬼ドラキュラン」を演じた<ref>{{Cite book |和書 |year=1981 |title=ジャイアントロボ |publisher=[[朝日ソノラマ]] |series=ファンタスティック・コレクションNo.24 |pages={{要ページ番号|date=2018年1月}} }}</ref>。
 
1971年の『[[仮面ライダー]]』([[MBSテレビ|毎日放送]]・[[東映]])では、ゲスト出演作である第10話「よみがえるコブラ男」がちょうど主演の[[藤岡弘、|藤岡弘]]が撮影現場で事故で重傷を負った回に当たり、このときちょうど奥村はロケバスで待機中だった。事故の一報を聞いて現場に駆け付け、「救急車!」と叫んで駆け回ったという<ref name="hero max" />。
 
[[1984年]]、『[[お葬式]]』では、最初に監督の[[伊丹十三]]から脚本を一読させられたあとに「何の役だと思います?」と聞かれ、伊丹から「死体の役ですよ」と言われた時はびっくりしたという<ref name="hero max" />。この死体役を演じるために練習を重ね、数分間息を止められるようになり、結果的にこの努力が高く評価されて「'''日本一の死体役'''」と絶賛された<ref name=nikkansports/>。共演の[[笠智衆]]からは「'''この映画の主役はあなたですよ、ラストシーンはあなたのアップでしょう'''」と言われたという<ref name="hero max" />。「長年役者をやってきたけど、この役をやってから、やっと食えるだけのギャラがもらえるようになりました」と述べている。
 
[[2001年]]の『[[BROTHER]]』では、初めてヤクザの親分を演じた。[[ビートたけし|北野武]]監督からは「奥村さんはそのまま何もしないでいいですよ、ホントのヤクザの親分は奥村さんみたいなんです」と言われたという<ref name="hero max" />。
 
[[2002年(平成14年)]]、[[日本放送協会NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]の『[[スタジオパークからこんにちは]]』に出演。ドラムを叩いたり、浴衣で踊る姿が反響を呼び、この年から全国各地の福祉施設の依頼を受けて公演に回った<ref name="hero max" />。「無名時代はそういうお声は全くかからなかったんですけどね」と語っている<ref name="hero max" />。
 
アクの強くないタイプで、小市民役を得意としていた(マンションの管理人役などは非常に多い)。
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[[大滝秀治]]とは[[将棋]]仲間だった<ref name="hero max" />。
 
[[2003年]]の『[[爆竜戦隊アバレンジャー]]』([[テレビ朝日]]・東映)では、杉下竜之介役で出演<ref name="hero max" />。同作の映画版『[[爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!]]』では、[[ビキニ (水着)|ビキニ]]姿にされるシーンがあり、「これは見どころではないでしょうか」と語っている<ref>{{Cite web|url=http://www.toeihero.net/archive/noa/backnumber/abare/topics/w08/06.html|title=ビ・キ・ニ…大公開!|publisher=[[東映ヒーローネット]]|accessdate=2014-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140412165227/http://www.toeihero.net/archive/noa/backnumber/abare/topics/w08/06.html |archivedate=2014-04-12}}</ref>。
 
[[2009年]](平成21年)[[12月24日]]、[[東京都]][[武蔵野]]の病院で[[呼吸不全|呼吸器不全]]のため死去<ref name=nikkansports/><ref>{{Cite news |title=遺体役で有名となった名脇役死去 |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |date=2010-01-14 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/01/14/kiji/K20100114Z00000230.html |accessdate=2016-11-27}}</ref>。{{没年齢|1930|3|31|2009|12|24}}。[[2010年]](平成22年)11月公開の映画『[[アイ・アム I am.#映画|アイ・アム I am.]]』、2010年3月公開の[[川端康成]]原作[[掌の小説_(映画)|オムニバス映画『掌の小説』]]が事実上の[[遺作]]となった。
 
[[左利き]]。趣味は[[ジャズ]]、[[社交ダンス]]、[[かっぽれ|江戸芸]]<ref name="profile1" />。特技は[[英語]]<ref name="profile1" />、[[ドラムセット|ドラム]]<ref name="profile1" />。
 
== 出演 ==
=== テレビドラマ ===