「三遊亭遊輔」の版間の差分

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| 没月 = 2
| 没日 = 27
| 師匠 = [[三遊亭圓遊#初代|初代三遊亭圓遊]]<br>[[桂文左衛門|2代目桂文枝]]<br>[[三遊亭圓遊#初代|初代三遊亭圓遊]]
| 弟子 = [[蜃気楼龍玉#2代目遊輔(後の|2代目蜃気楼龍玉)<br />他三遊亭遊輔]]
| 名跡 = 1.三遊亭太遊(? - 1892年)<br />2.初代三遊亭遊輔(1892年 - 1908年)
| 出囃子 =
| 活動期間 = ? - 1908年
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| 備考 =
}}
初代 '''三遊亭 遊輔'''([[1865年]](逆算) - [[1908年]][[2月27日]])は、[[明治]]期に活躍した落語家。本名は末吉 伊三郎。
 
高座で[[泥棒]]噺をよく演じていたため、「泥棒遊輔」と呼ばれた。
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[[神楽町]]の料理店「末よし」で生まれ育つ。[[三遊亭圓遊#初代|初代三遊亭圓遊]]に入門して、太遊から[[1892年]]?に遊輔を名乗る。
 
[[1899年]][[8月]]に[[大阪]]へ赴き、[[桂文左衛門|2代目桂文枝]](後の[[桂文左衛門]])が率いる[[桂派]]に入るが、すぐに脱退して[[東京]]の圓遊門下に戻った。
 
[[1901年]]には再び大阪に移って[[三友派]]に加入するが、ここにも長居せずにすぐに東京に帰った。一時は[[名古屋]]に居を構えていたこともあり、東西の[[寄席]]に出演していた。
 
しかし帰京後に[[1907年]]春に病気を患い、高座に出演の回数も減り1908年に没した。
==弟子==
 
*[[蜃気楼龍玉#2代目|2代目三遊亭遊輔]]
2代目遊輔(後の2代目蜃気楼龍玉)、一輔(後に[[三遊亭小圓遊#初代|初代小圓遊]]門下で小新遊を名乗る、本名:山辺信一)、亀輔(後に[[三遊亭圓遊#2代目|2代目圓遊]]門下で左好を名乗る、本名:中村静一)などの弟子がいたほか、名古屋時代には三遊亭圓都(本名未詳)がおり、この圓都の一座に後の[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]が三遊亭小圓都の名で所属していたことがある。
*三遊亭一輔(後に[[三遊亭小圓遊#初代|初代小圓遊]]門下で小新遊を名乗る。本名:山辺信一)
*三遊亭亀輔(後に[[三遊亭圓遊#2代目|2代目圓遊]]門下で左好を名乗る。本名:中村静一)
;名古屋時代
*三遊亭圓都(本名未詳)
**[[桂文楽 (8代目)|三遊亭小圓都]]
 
[[Category:落語の名跡|さんゆうてい ゆうすけ]]