「ミッドウェー海戦」の版間の差分

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211.7.139.226 (会話) による ID:75734709 の版を取り消し。対立のある問題なので、著者、年代など帰属を明確にする(Wikipedia:中立的な観点)。生前公開された証言と死後の第三者の主張は明記すべき情報(取材時期は主張に過ぎない)。記載することが強調と感じられるならそれだけ重要ということです。
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戦後残された戦闘詳報には、午前2時20分に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られたことが記載されている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>。この戦闘詳報は、第一航空艦隊司令部の乙航空参謀だった[[吉岡忠一]]が海戦直後に作成した戦闘詳報から功績調査用に抜粋し書き直したとされるもので、吉岡の作成したものは残されていない<ref>『歴史と人物 165号』中央公論社1984年9月 29頁</ref>。
 
吉岡の生前に出版された作家・豊田穣の著書取材よればおいて、この0220信について吉岡「予令などというものを出すはずがない」、「全然知らない」、「司令部が出す航空に関する信号は全て航空参謀が文面を起案し、参謀長、長官の許可を取って発信するのが普通だが、私(吉岡)は知らないし、甲航空参謀源田中佐も知らないはずだ」と答えたと語って<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社321-322頁</ref>。同じく豊田はまた、第一航空艦隊司令部の航海参謀雀部利三郎中佐、赤城飛行士兼飛行隊士後藤仁一、加賀の飛行長天谷孝久、艦攻先任分隊長牧秀雄からもこの予令を知らないと証言を得たとして<ref>豊田穣『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』講談社 後藤315、牧316、天谷317、雀部331頁</ref>。
 
しかし、吉岡の死後に行われた作家・[[森史朗]]の著書主張によれば、信号命令の冒頭に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」がある形で吉岡が起案したと、昭和51年3月19日の取材で吉岡から聞いたという<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 54頁</ref>。森によれば、この信号命令は源田航空甲参謀の指示で吉岡が書き、草鹿参謀長、南雲司令を経た通常の手順で発信されたものという証言も得たという<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 423頁</ref>。さらに、第一航空艦隊の戦闘詳報に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の箇所は記載されていないが<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 54頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6</ref>、これについて吉岡は、南雲司令部にとってみっともない事実であったため隠蔽したと認めたという<ref>{{Harvnb|森史朗|2012b}} 424-425頁</ref>。
 
== 暗号解読を報じた米新聞 ==