「大派皇子」の版間の差分
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別の記述では「'''大俣王'''」とも書かれることから、敏達天皇の孫「大俣王」と同一人物と見る説もある。
[[舒明天皇]]8年([[636年]])に官人の勤務制度について[[大臣 (古代日本)|大臣]]の[[蘇我蝦夷]]に「今より以後、卯(うのとき)の始めに朝(まゐ)りて、巳(みのとき)の後に退でむ。因りて鐘を以て節(ととのへ)とせよ」(官人たちの出
[[斉明天皇|皇極天皇]]元年([[642年]])、舒明天皇の大葬では[[巨勢徳多]]が大派皇子の代わりに[[誄]]を述べている。この頃、皇子は王族中の最年長者であり、天皇の叔父として誄をする立場にあり、軽皇子(後の[[孝徳天皇]])の代理[[粟田細目]]や蘇我蝦夷の代理[[大伴長徳]]らより先に誄を述べられていることから、当時の大派皇子の地位が高かったことが分かる。
== 参考文献 ==
* 『日本書紀』(四)、[[岩波文庫]]、1995年
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