「大派皇子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ミス修正。
→‎概要: タイプミスと記号の小修正
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集
31行目:
別の記述では「'''大俣王'''」とも書かれることから、敏達天皇の孫「大俣王」と同一人物と見る説もある。
 
[[舒明天皇]]8年([[636年]])に官人の勤務制度について[[大臣 (古代日本)|大臣]]の[[蘇我蝦夷]]に「今より以後、卯(うのとき)の始めに朝(まゐ)りて、巳(みのとき)の後に退でむ。因りて鐘を以て節(ととのへ)とせよ」(官人たちの出・退出時間があいまいなので、鐘で勤務時間をはっきりとさせよう)と意見をだしているが、無視されている<ref>『日本書紀』舒明天皇8年7月1日条</ref>。[[推古天皇]]12年([[604年]])に朝礼を改むとあり、宮門の出入りには二つの手をもって地を押し、二つの脚をもってひざまづいて、門の内外のしきりを越えて立ってゆけ、となり、すなわち、跪伏礼を行わせているところから、推古天皇の時代には、朝堂・朝庭を備えた[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の宮で朝参・朝政が既に行われていたようである<ref>『日本書紀』推古天皇12年9月条</ref>。『隋書』「倭国伝」によると、[[開皇]]20年(推古天皇8年、[[600年]])の遣隋使の際に、倭王が夜明け前から政を聴き、日が出ると政務を停止していることを、[[楊堅|高祖]]が「これ大いに義理なし」と改めさせた、とある<ref>『隋書』巻第八十一「東夷伝」倭国条</ref>。なお、[[大化]]3年([[647年]])[[孝徳天皇]]が小郡宮にて礼法を定めた内容によると、有位者は寅の時に、南門で列を作って日の出を待ち、日の出とともに朝庭に行き、再拜して政庁にはいること、午の時になったら退出せよ、と決められている<ref>『日本書紀』孝徳天皇大化3年是歳条</ref>。
 
[[斉明天皇|皇極天皇]]元年([[642年]])、舒明天皇の大葬では[[巨勢徳多]]が大派皇子の代わりに[[誄]]を述べている。この頃、皇子は王族中の最年長者であり、天皇の叔父として誄をする立場にあり、軽皇子(後の[[孝徳天皇]])の代理[[粟田細目]]や蘇我蝦夷の代理[[大伴長徳]]らより先に誄を述べられていることから、当時の大派皇子の地位が高かったことが分かる。
 
== 参考文献 ==
* 『日本書紀』(四)、[[岩波文庫]]、1995年