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'''今村 均'''(いまむら ひとし、[[1886年]][[6月28日]] - [[1968年]][[10月4日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]19期・[[陸軍大学校|陸大]]27期首席。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[陸軍大将]]。[[宮城県]][[仙台市]]出身
 
== 経歴 ==
1886年6月28日、[[宮城県]][[仙台区]]に父・虎尾と母・きよみの息子として生まれる。祖父は戊辰戦争の際に[[仙台藩]][[参謀]]を務める名門であったが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難をあび財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒におぼれる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍をたたきこまれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのようななか、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格し[[裁判官]]として任官した。虎尾妻のきよみは陸軍将校の娘であるきよみを娶り、きよみによって均を始めとする多くの子供が産み育てられた。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。
 
[[新潟県立新発田高等学校|新発田中学]]([[山梨県立甲府第一高等学校|甲府中学校]]から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、[[判事]]をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、もしくは[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]に進学することが厳しくなる。母きよみは[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、[[明治神宮外苑競技場|青山の陸軍練兵場]]で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る[[明治天皇]]の姿を見ようと天皇の乗る[[御料車|御料馬車]]に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した<ref>この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが[[本間雅晴]]であった。これが親友となるきっかけとなり、以降も駐英武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。</ref>
=== 青年期 ===
[[新潟県立新発田高等学校|新発田中学]]([[山梨県立甲府第一高等学校|甲府中学校]]から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、[[判事]]をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、もしくは[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]に進学することが厳しくなる。母きよみは[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、[[明治神宮外苑競技場|青山の陸軍練兵場]]で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る[[明治天皇]]の姿を見ようと天皇の乗る[[御料車|御料馬車]]に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した<ref>この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが[[本間雅晴]]であった。これが親友となるきっかけとなり、以降も駐英武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。</ref>。
 
1907年5月31日、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業し、[[見習士官]]となる。12月26日、陸軍歩兵少尉に任官、[[歩兵第4連隊]]附。
9歳まで[[夜尿症]]を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた<ref>夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。</ref>。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。[[軍医]]や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外[[演習]]中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達は、それ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなったという逸話が残っている<ref>陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝した。</ref>。
 
陸軍士官学校を優秀な成績(54番/1053名)で卒業した今村は[[見習士官]]を経て陸軍[[歩兵]][[少尉]]に任官し1915年12月11日[[中尉]]の頃に[[陸軍大学校]]に進学。そこでも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。そのようなハンディを背負いながらも陸軍大学校27期[[首席]]で卒業し、[[恩賜の軍刀]]を賜った<ref>同期生には本間雅晴(3番の成績)や[[東條英機]]がおり、本間は3番、東條は11(11番の成績で卒業し)がい。</ref>
 
=== 満州事変から日中戦争 ===
1931年8月、参謀本部作戦課長に任命。9月、[[満州事変]]勃発当時、[[参謀本部]]作戦課長と、今村は独断で軍を動かす[[関東軍]]と朝鮮師団の越境に対して、統帥の紊乱や国民の支持、また世界の世論の反応から反対論を軍事課長の[[永田鉄山]]とともに展開する。この関東軍の暴走は青年将校組織の[[桜会]]とも通じているとの情報を受けつつ、[[クーデター]]未遂となった[[十月事件]]の事態の収拾にあたる。首謀者である[[橋本欣五郎]]等が未遂のまま逮捕されたのは、今村によると、クーデター直前に名も知らぬ貿易商から渡された名刺に書かれたクーデターに関する情報だったという<ref name=":0">{{Cite book|author=今村均|title=今村均回顧録|date=1993.10.25|year=|accessdate=|publisher=芙蓉書房出版|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
 
*[[1931年]](昭和6年)8月 - 参謀本部作戦課長<ref>当該役職にある今村は[[満州事変]]勃発後、今村は[[朝日新聞]]新聞編集局長[[緒方竹虎]]から求められて4時間にわたって面談し、その席で参謀本部の関東軍への統制不足を認めつつ、現地在留邦人の悲惨な状況をみて石原、板垣の行動をやむを得ないとし、満州事変への世論による支持の必要性を訴えたというまた、それまで満州事変不支持の立場にああり不買運動もみられた朝日新聞は、今村によれば、それ以降コロっと変わったされるいう(<ref>「NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 “熱狂”はこうして作られた」(2011年NHK)における今村本人肉声)</ref>。
その後、中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、[[板垣征四郎]]高級参謀や[[石原莞爾]]参謀に酒席の場に呼び出されたあげくに馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。今村はこうした関東軍の中央の統制に反した行動を厳罰に処すべきだったと後に振り返り、それに反して軍統帥に従わなかったものが後に栄転していくことが後の陸軍の[[下克上]]の風習を作り出したと指摘している。
 
その後、中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、[[板垣征四郎]]高級参謀や[[石原莞爾]]参謀に酒席の場に呼び出されたあげくに馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。今村はこうした関東軍の中央の統制に反した行動を厳罰に処すべきだったと後に振り返り、それに反して軍統帥に従わなかったものが後に栄転していくことが後の陸軍の[[下克上]]の風習を作り出したと指摘している<ref name=":0" />
今村は後に関東軍参謀副長となったが、そのときに関東軍が独断で進める[[内蒙古]]工作を中央からストップをかけるべく、当時の参謀本部作戦部長だった石原莞爾がやってきた。このとき関東軍参謀の[[武藤章]]が、石原を嘲笑して「あなたのされた行動を見習い、その通りに内蒙古で実行しているものです」と言い放った場に今村は同席している。<ref name=":0" />
 
今村は後1932年4月、[[歩兵第57連隊]]長任命。1936年3月、[[関東軍]][[参謀]]副長となったが、そのとき・兼駐[[満州国]]大使館附武官任命。関東軍が独断で進める[[内蒙古]]工作を中央からストップをかけるべく、当時の参謀本部作戦部長だった石原莞爾がやってきた。このとき関東軍参謀の[[武藤章]]が、石原を嘲笑して「あなたのされた行動を見習い、その通りに内蒙古で実行しているものです」と言い放った場に今村同席している。<ref name=":0" />
 
1933年5月31日、満州事変終結。
 
=== 支那事変 ===
1937年7月、[[支那事変]]が勃発。8月、[[陸軍歩兵学校]]幹事に任命。1938年1月、陸軍省[[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に任命。11月、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長に任命。
 
*1940年3月、[[戦陣訓]]の起案を教育総監部]]本部長時代任命。[[戦陣訓]]の起案を[[島崎藤村]]などの意見を入れながら担当した。後に、よい話を入れようとし過ぎて長過ぎるものになったことが失敗であったと述懐している。もともと戦時訓は日中戦争での略奪や強姦や一般市民の殺害の多発に危機感をもった[[岩畔豪雄]]の発案のもので、のちに今村が司令官として前線にもどってから、その軍紀紊乱を目の当たりにして、「無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないこと」をはっきりと短く書くべきだったと述懐している<ref name=":1">{{Cite book|author=今村均|title=続今村均回顧録|date=1993.10.25|year=|accessdate=|publisher=芙蓉書房出版|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
 
=== 太平洋戦争 ===
==== 蘭印作戦第十六軍司令官 ====
1941年6月、[[第23軍 (日本軍)|第23軍]][[司令官]]に任命。11月、[[第16軍 (日本軍)|第16軍]]司令官に任命。軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着している<ref name=":0" />。12月、太平洋戦争勃発。
 
{{main|蘭印作戦}}
開戦時は[[オランダ領東インド]]([[インドネシア]])を攻略する[[蘭印作戦]]を指揮。
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦後、第16軍司令官として[[オランダ領東インド]]([[インドネシア]])を攻略する[[蘭印作戦]]を指揮。陸軍の最精鋭[[空挺部隊]]であり「[[空の神兵]]」と謳われる[[挺進連隊|第1挺進団(挺進部隊)]]や、[[飛行第64戦隊]]・[[飛行第59戦隊]]の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標である[[パレンバン]]の油田地帯を制圧([[パレンバン空挺作戦]])。さらに100隻弱の船団を使用する最大規模の[[上陸作戦]]となった[[蘭印作戦#ジャワ島の戦い|ジャワ上陸作戦]]では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千の[[オランダ軍]]と約5千の[[イギリス軍]]・[[アメリカ軍]]・[[オーストラリア軍]]を[[無条件降伏]]させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。ジャワ島攻略の際、同島北西のバンタム湾において上陸を図った日本軍と連合軍の間で海戦が生起、今村以下第16軍司令部の座乗していた輸送船[[龍城丸]]などが被雷沈没したものの、今村は救命胴衣を着けて海上を泳ぎ、まもなく救助された<ref name="senshi">{{Citation| author = 防衛庁防衛研修所戦史室| title = 戦史叢書第3巻「蘭印攻略作戦」| url = http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=003| date = 1967
| publisher = 朝雲出版社| pages = 490-491| ref = harv}}</ref>。
 
1942年2月、攻略目標の重要油田地帯であるパレンバンの占領に成功。3月、ジャワ上陸に成功。100隻弱の船団を使用する大規模な[[上陸作戦]]となり、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千の[[オランダ軍]]と約5千の[[イギリス軍]]・[[アメリカ軍]]・[[オーストラリア軍]]を[[無条件降伏]]させて作戦は成功した。
[[バタビア沖海戦]]の影響で日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊によるものであることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、この被害で救い上げられるまで救命胴衣で約3時間泳ぐことにもなった[[今村均]][[大日本帝国陸軍|陸軍]]中将が快く了承し、事実を公にしなかったためである<ref>戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦 489-490頁</ref>
 
{{main|バタビア沖海戦}}
[[File:ShinshuMaru-1938.jpg|thumb|right|250px|今村が第16軍司令官として座乗していた[[陸軍特種船]]「[[神州丸]](神洲丸)」]]
ジャワ島攻略の際には、[[バタビア沖海戦]]が発生し、日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。今村の座乗していた輸送船[[龍城丸]]も被雷沈没し、救い上げられるまで救命胴衣で約3時間重油の流出した海で泳ぐことになった。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊によるものであることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、今村が快く了承し、事実を公にしなかったためである<ref>戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦 489-490頁</ref>。今村は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍[[水雷戦隊#第五水雷戦隊|第5水雷戦隊]]・第7戦隊司令官に対しに対し、「二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス 第16軍司令官今村均陸軍中将」という謝辞を送っている<ref>第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C08030119100</ref>。
{{main|神州丸#重巡「最上」の誤射}}
* ジャワ上陸作戦の際しかし阻止攻撃に来襲したアメリカ艦隊と護衛日本艦隊との間被害[[バタビア沖海戦]]が発生。この際に海軍の[[重巡洋艦]]「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」の[[酸素魚雷|九三式魚雷]]の誤射([[同士討ち]])により、今村以下第16軍司令が座乗していた事実上の世界初の[[揚陸艦]]である[[陸軍特種船]]「[[神州丸]](神洲丸)」と、輸送船2隻、病院船1隻、掃海艇1隻が沈没した。約3時間後に[[陸軍船舶兵|船舶兵]]らによって救助されるまで今村重油の流出した海で漂流、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表は海没しジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。
** 上陸作戦後、誤射という海軍の大失態が判明し後日司令部揃って謝罪に来た海軍指揮官に対し、今村は快く謝罪を受け入れたうえ同士討ちの事実を隠蔽することを提案したといわれる。事実、帝国陸軍は軍司令官を日本軍の虎の子的存在である特種船「神洲丸」とともに沈められたこの事件を不問に処し、海軍の名誉に傷をつけぬよう「神州丸」以下の沈没は連合軍の駆逐艦や爆撃機の攻撃によるものとし、責任追及も行っていない。
** 以下は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍に対して今村が送った謝辞である<ref>第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C08030119100</ref>。
{{quotation|
二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス
|第16軍司令官今村均陸軍中将([[水雷戦隊#第五水雷戦隊|第5水雷戦隊]]・第7戦隊司令官に対し)}}
 
* 今村は上述のジャワ上陸作戦の輸送船撃沈の他、この作戦前の軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着することになったり、ラバウルへの赴任前にはシンガポールで離陸時に乗機が墜落するなど、何度か死に瀕する事故に遭遇している。<ref name=":0" />
 
* 占領後、今村は蘭印地域の管理を行った。今村によるジャワ占領下の軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」と一部でまことしやかに言われているが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書には、そのような記述は存在しない。<ref>{{Cite book|author=スロト|title=全訳世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア その人々の歴史|date=1983.4.1|year=|accessdate=|publisher=帝国書院|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref>{{Cite book|author=越田僚|title=アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編|date=1990.4.25|year=|accessdate=|publisher=梨の木舎|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている。<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref name=":1" />
* 今村は文学少年であり、陸軍士官学校時代から[[聖書]]や『[[歎異抄]]』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた<ref>『歴史街道』2000年9月増刊号</ref>。
ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている<ref name=":0" />。
*[[漫画家]]の[[水木しげる]]は、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している<ref>水木しげる「カランコロン漂泊記」[[小学館文庫]]</ref>。
* 国鉄スワローズ(現・[[東京ヤクルトスワローズ]])が、[[産経新聞]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の意向で本拠地を[[明治神宮野球場]]に隣接する第2球場に移転しようとした際、[[日本学生野球協会]]が反対の意向を表明、国会でも問題となり、更には[[右翼団体]]までもが動くという状況の中、反対派に担ぎ出されたという<ref>『ヤクルトスワローズ球団史』徳永喜男・元同球団代表</ref>。
* 小説家の[[司馬遼太郎]]がその著作で[[乃木希典]]を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。
* 今村によるジャワ占領下の軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」と一部でまことしやかに言われているが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書には、そのような記述は存在しない。<ref>{{Cite book|author=スロト|title=全訳世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア その人々の歴史|date=1983.4.1|year=|accessdate=|publisher=帝国書院|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref>{{Cite book|author=越田僚|title=アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編|date=1990.4.25|year=|accessdate=|publisher=梨の木舎|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている。<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref name=":1" />
*[[戦陣訓]]の起案を教育総監部本部長時代に、[[島崎藤村]]などの意見を入れながら担当した。後に、よい話を入れようとし過ぎて長過ぎるものになったことが失敗であったと述懐している。もともと戦時訓は日中戦争での略奪や強姦や一般市民の殺害の多発に危機感をもった[[岩畔豪雄]]の発案のもので、のちに今村が司令官として前線にもどってから、その軍紀紊乱を目の当たりにして、「無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないこと」をはっきりと短く書くべきだったと述懐している。<ref name=":1">{{Cite book|author=今村均|title=続今村均回顧録|date=1993.10.25|year=|accessdate=|publisher=芙蓉書房出版|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
* 自衛隊で[[陸将補]]となった[[冨澤暉]]は今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話している<ref>『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」</ref>。
* 長男である[[今村和男]]は、[[湯川秀樹]]教授に師事し[[大阪帝国大学]]理学部物理学科を卒業ののち、技術部見習士官制度を経て陸軍航技中尉に任官し帝国陸軍の航空技術将校となっている。
** 和男は1941年6月に[[陸軍航空技術研究所]]第2部(機体・プロペラの研究)へ配属され、1943年半ばには[[陸軍航空審査部]]飛行機部へ転属し、最終階級は陸軍技術少佐。戦後は[[鉄道技術研究所]]技師を経て[[防衛庁]]技官、[[防衛大学校]]教官などを歴任<ref>[http://www.ningengakkai.or.jp/about/profile_imamura.html 社団法人日本人間学界代表理事(2016年11月1日閲覧)]</ref>)
** 航技研時代には陸軍機の防弾装備研究・開発にあたり、[[12.7x99mm NATO弾|12.7mm弾]]に対応する新型防漏タンク(防弾タンク)実用化に貢献、その功績から開発陣には[[陸軍技術有功章]]が[[陸軍大臣]]から授与された<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.138</ref>。
 
攻略の後、[[オランダ]]によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、[[スカルノ]]と[[ハッタ]]ら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の[[官吏]]登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した[[製油所|石油精製施設]]を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であった[[オランダ人]]についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、[[捕虜]]となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。
 
戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白[[木綿]]の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の[[児玉秀雄]]らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
 
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「[[インドネシア・ラヤ]]」が、[[ジャワ島]]で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという
 
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、[[1942年]]([[昭和]]17年)3月には今村とは親しい仲である[[参謀総長]]・[[杉山元]]が直々に[[バタビア]]に出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している<ref>この時杉山から「[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|バターン攻略]]に難航した本間雅晴軍司令官を[[大本営]]は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。</ref>。また、[[陸軍省]][[軍務局]]長の[[武藤章]]、人事局長の[[富永恭次]]も今村に対し、ジャワ島でも[[シンガポール]]同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。
 
==== 第八方面軍司令官 ====
今村は「[[八紘一宇]]というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。
[[1942年]](昭和17年)11月20日、[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官として[[ニューブリテン島]]に位置する[[ラバウル]]に着任した。ラバウルへの赴任前にシンガポールで離陸時に乗機が墜落している<ref name=":0" />。
 
[[1942年]](昭和17年)11月20日、今村は[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官として[[ニューブリテン島]]に位置する[[ラバウル]]に着任した<ref name=":2">左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の[[原田熊吉]][[中将]]は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。</ref>。のち、[[山本五十六]]海軍[[大将]]と会見している。今村と山本は[[佐官]]時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる<ref>今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。</ref>。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
==== ラバウル防衛隊 ====
[[1942年]](昭和17年)11月20日、今村は[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官として[[ニューブリテン島]]に位置する[[ラバウル]]に着任した<ref name=":2">左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の[[原田熊吉]][[中将]]は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。</ref>。のち、[[山本五十六]]海軍[[大将]]と会見している。今村と山本は[[佐官]]時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる<ref>今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。</ref>。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
 
[[1943年]](昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は[[草鹿任一]]中将、陸軍側が今村大将であった。
 
日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村は[[ガダルカナル島の戦い]]の戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという<ref>早々から自給自足を提唱していた今村ら陸軍に対し、海軍は当初は冷淡な対応であったが、戦局悪化に伴い作物の栽培に関して陸軍に教えを請う事になる。</ref>
またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下[[要塞]]を構築し、病院、[[兵器]]や[[弾薬]]を生産する[[工廠]]も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。
 
ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた<ref>第8方面軍経理部部員だった主計大尉によれば、敵機の数は1944年1月2979機、2月2732機。</ref>。さらに[[1944年]](昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍の[[ダグラス・マッカーサー]]将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した<ref>これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった。C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196</ref>
これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった。<ref>C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196</ref>。
こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の[[南東方面艦隊]]と共に[[日本の降伏|終戦]]までラバウルを確保した。
 
* 自衛隊で[[陸将補]]となった[[冨澤暉]]は今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話している<ref>『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」</ref>。
 
=== 戦後 ===
 
[[1968年]](昭和43年)10月4日、死去。享年82。墓は仙台市の[[輪王寺 (仙台市)|輪王寺]]にある。
 
== 評価人物 ==
[[指揮官]]としての[[戦術]]面では、実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる[[1942年]](昭和17年)3月10日([[陸軍記念日]])付の[[読売新聞]]記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。
 
[[戦略]]面では、ラバウルでの[[持久戦]]が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる<ref name=":3">今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かった。</ref>
 
*[[漫画家]]の[[水木しげる]]は、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している<ref>水木しげる「カランコロン漂泊記」[[小学館文庫]]</ref>。
 
9歳まで[[夜尿症]]を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた<ref>夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。</ref>。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。[[軍医]]や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外[[演習]]中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達は、それ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなったという逸話が残っている<ref>陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝したという</ref>[[陸軍大学校]]でも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった
 
今村は読書家で、文学少年であった陸軍士官学校時代から[[聖書]]や『[[歎異抄]]』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた<ref>『歴史街道』2000年9月増刊号</ref>。今村は「[[八紘一宇]]というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。小説家の[[司馬遼太郎]]がその著作で[[乃木希典]]を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。
* 国鉄スワローズ(現・[[東京ヤクルトスワローズ]])が、[[産経新聞]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の意向で本拠地を[[明治神宮野球場]]に隣接する第2球場に移転しようとした際、[[日本学生野球協会]]が反対の意向を表明、国会でも問題となり、更には[[右翼団体]]までもが動くという状況の中、反対派に担ぎ出されたという<ref>『ヤクルトスワローズ球団史』徳永喜男・元同球団代表</ref>。
 
** 今村均の長男である[[今村和男]]は、[[湯川秀樹]]教授に師事し[[大阪帝国大学]]理学部物理学科を卒業ののち、技術部見習士官制度を経て陸軍航技中尉に任官し帝国陸軍の航空技術将校となっている。和男は1941年6月に[[陸軍航空技術研究所]]第2部(機体・プロペラの研究)へ配属され、1943年半ばには[[陸軍航空審査部]]飛行機部へ転属し、最終階級は陸軍技術少佐。戦後は[[鉄道技術研究所]]技師を経て[[防衛庁]]技官、[[防衛大学校]]教官などを歴任した<ref>[http://www.ningengakkai.or.jp/about/profile_imamura.html 社団法人日本人間学界代表理事(2016年11月1日閲覧)]</ref>。航技研時代には陸軍機の防弾装備研究・開発にあたり、[[12.7x99mm NATO弾|12.7mm弾]]に対応する新型防漏タンク(防弾タンク実用化に貢献、その功績から開発陣には[[陸軍技術有功章]]が[[陸軍大臣]]から授与された<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.138</ref>。
 
== 年譜 ==
**11月 - 陸軍省軍務局課員。
*[[1930年]](昭和5年)8月 - 陸軍歩兵[[大佐]]に進級。陸軍省軍務局徴募課長。
*[[1931年]](昭和6年)8月 - 参謀本部作戦課長
*[[1931年]](昭和6年)8月 - 参謀本部作戦課長<ref>当該役職にある今村は[[満州事変]]勃発後に[[朝日新聞]]新聞編集局長[[緒方竹虎]]から求められて4時間にわたって面談し、その席で参謀本部の関東軍への統制不足を認めつつ、現地在留邦人の悲惨な状況をみて石原、板垣の行動をやむを得ないとし、満州事変への世論による支持の必要性を訴えた。それまで満州事変不支持の立場にああり不買運動もみられた朝日新聞は、今村によれば、それ以降コロっと変わった、とされる。(「NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 “熱狂”はこうして作られた」(2011年NHK)における本人肉声)</ref>。
*[[1932年]](昭和7年)4月 - [[歩兵第57連隊]]長。
*[[1933年]](昭和8年)8月 - [[陸軍習志野学校]]幹事。
*[[1955年]](昭和30年)9月24日 - [[防衛省|防衛庁]]顧問に就任。
*1968年(昭和43年)10月4日 - 死去。{{没年齢|1886|6|28|1968|10|4}}。
 
== 評価 ==
[[指揮官]]としての[[戦術]]面では、実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる[[1942年]](昭和17年)3月10日([[陸軍記念日]])付の[[読売新聞]]記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。
 
[[戦略]]面では、ラバウルでの[[持久戦]]が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる<ref name=":3">今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かった。</ref>。
<!--特に彼が戦後とった行動は、現代社会における有事の上司の行動と比較され、「素晴らしい上司とは、かくあるべき」とされることが多い。これと比較して今村将軍の評価の際は同じ日本陸軍の[[牟田口廉也]]中将が引き合いに出されることが往々にしてある。-->
 
== 著書 ==
*『今村均回顧録』(正・続、芙蓉書房出版、新版1993年)
**新版『幽囚回顧録』産経新聞出版、2010年/中公文庫、2019年
*:入獄中に書き始め、出獄し4年後に完成させた。様々な版で刊行された。
 
== 今村均に関連する書籍 ==
*土門周平『陸軍大将・今村均』 PHP研究所
*[[角田房子]]『責任 ラバウルの将軍 今村均』(新版・[[ちくま文庫]])ISBN 4-480-42151-3
*秋永芳郎『陸軍大将今村均―人間愛をもって統率した将軍の生涯』 [[光人社]]、のち同文庫
*[[日下公人]]『組織に負けぬ人生。 不敗の名将・今村均大将に学ぶ』 PHP研究所/祥伝社新書
*[[葉治英哉]]『今村均 信義を貫いた不敗の名将』 PHP研究所、のち同文庫
*[[山岡荘八]]『小説 太平洋戦争』([[講談社文庫]]・山岡荘八歴史文庫)
 
== 脚注 ==
 
== 参考文献 ==
 
* {{Citation|和書|title=今村均回顧録|year=1993|last=今村|first=均|authorlink=|series=|edition=|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=}}
 
* {{Citation|和書|title=歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期|year=2013|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|series=|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=}}
 
== 関連文献 ==
*土門周平『陸軍大将・今村均』 PHP研究所
*[[角田房子]]『責任 ラバウルの将軍 今村均』(新版・[[ちくま文庫]])ISBN 4-480-42151-3
*秋永芳郎『陸軍大将今村均―人間愛をもって統率した将軍の生涯』 [[光人社]]、のち同文庫
*[[日下公人]]『組織に負けぬ人生。 不敗の名将・今村均大将に学ぶ』 PHP研究所/祥伝社新書
*[[葉治英哉]]『今村均 信義を貫いた不敗の名将』 PHP研究所、のち同文庫
*[[山岡荘八]]『小説 太平洋戦争』([[講談社文庫]]・山岡荘八歴史文庫)
 
== 関連項目 ==
*[[草鹿任一]] - 今村と共にラバウルを守備した海軍側の指揮官。
*[[安達二十三]] - 今村([[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官)の麾下の[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]司令官として東部ニューギニアで戦い([[ニューギニアの戦い]])、戦後に部下将兵の後を追って[[自殺|自決]]。
*[[本間雅晴]] - [[陸軍士官学校 (日本)|陸士]](19期)の同期、親交があったと言われている
*[[山中峯太郎]] - 陸士(19期)の同期、中尉の時に陸軍を去り、[[作家]]となった。
*[[ミュージカル南十字星]]