「小谷澄之」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎著書: カテゴリ修正 using AWB
編集の要約なし
タグ: サイズの大幅な増減
1行目:
{{Infobox 人物
'''小谷 澄之'''(こたに すみゆき、[[1903年]][[8月3日]] - [[1991年]][[10月9日]])は、[[日本]]の[[柔道]]家([[講道館]]10段)。 
|氏名 = 小谷 澄之
|ふりがな = こたに すみゆき
|画像 = Sumiyuki Kotani.jpg
|画像サイズ = 200px
|画像説明=
|出生名=
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1903|08|03|died}}
|生誕地 = [[兵庫県]]
|失踪年月日=
|失踪地=
|現況=
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1903|08|03|1991|10|09}}
|死没地 = [[兵庫県]][[西宮市]]
|死因 = [[肺炎]]
|遺体発見=
|墓地=
|記念碑=
|住居=
|国籍 = {{JPN}}
|別名=
|民族=
|市民権=
|教育=
|出身校 = [[兵庫師範学校|兵庫県御影師範学校]]<br/>[[東京高等師範学校]]
|職業 = [[柔道家]]
|活動期間=
|雇用者=
|団体=
|代理人=
|著名な実績 = [[明治神宮競技大会柔道競技]]優勝<br/>[[オリンピックのレスリング競技|五輪レスリング競技]]5位入賞
|業績=
|流派 = [[講道館]]([[柔道#段級位制|10段]])
|師 = [[藤田軍蔵]]、[[永岡秀一]]、<br/>[[桜庭武]]、[[橋本正次郎]]
|弟子=
|影響を受けたもの=
|影響を与えたもの=
|活動拠点=
|給料=
|純資産=
|身長 = 162cm
|体重 = 69kg
|テレビ番組=
|肩書き = [[全日本柔道連盟]]副会長・顧問<br/>[[講道館]]道場最高顧問・評議員<br/>[[東海大学]]教授<br/>[[日本スポーツ協会|日本体育協会]]参与 ほか
|任期=
|前任者=
|後任者=
|政党=
|政治運動=
|敵対者=
|取締役会=
|宗教=
|宗派=
|罪名=
|刑罰=
|犯罪者現況=
|配偶者=
|非婚配偶者=
|子供=
|親=
|親戚=
|コールサイン=
|受賞 = [[講道館]]創立90周年功労賞(1972年)<br/>[[勲四等]][[瑞宝章]](1974年)
|署名=
|署名サイズ=
|公式サイト=
|補足=
}}
'''小谷 澄之'''(こたに すみゆき、[[1903年]][[8月3日]] - [[1991年]][[10月9日]])は、[[日本]]の[[柔道家]]([[講道館]]10段)、[[レスリング]]選手。
 
[[身長]]162cm・[[体重]]69kgという小柄な体格ながら、現役時代は柔道選手として[[明治神宮競技大会]]で優勝したほか、[[昭和天覧試合]]や[[熊本県|熊本]]・[[福岡県|福岡]]対抗試合、[[満州国|満州]]・福岡対抗試合等にも出場して活躍した。また、レスリング選手としても[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]に出場している。
 
現役を退いてからは[[ヨーロッパ|欧州]]や[[アメリカ合衆国|米国]]等を歴訪して[[柔道]]の普及と振興に尽力する傍ら、講道館や[[全日本柔道連盟]]で要職を歴任して永く柔道界の運営に携わり、晩年には講道館10段位に列せられた。
 
== 経歴 ==
=== 御影師範で柔道を始める ===
[[兵庫県]]に生まれる。1921年[[講道館]]入門。[[兵庫師範学校|兵庫県御影師範学校]]を経て、[[1927年]]に[[東京高等師範学校]]を卒業する。卒業後、[[第五高等学校 (旧制)|旧制第五高等学校]]および[[熊本医科大学 (旧制)|旧制熊本医大]]の柔道教師を務め、[[1929年]]には[[南満州鉄道株式会社]]入社し[[満州国・関東州の高等教育機関#大連|南満洲工業専門学校]]にて柔道指導を行った。また同年の[[昭和天覧試合#御大礼記念天覧武道大会|御大礼記念天覧武道大会]]では当時の柔道家として最高の栄誉である指定選士32人の1人にも選出されている。
[[兵庫県]][[但馬]]は[[朝来郡]]中川村(現・[[朝来市]])の[[農村]]の家に4人兄弟の末っ子として生まれる<ref name="大日本雄弁会講談社">{{Cite news|author = 野間清治|authorlink=|url=|title= 柔道六段|newspaper = 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、841頁|publisher = [[講談社|大日本雄弁会講談社]]|date = 1934-11-25|accessdate=}}</ref><ref name="機関誌199112">{{Cite news|author = 財団法人[[講道館]]編輯部|authorlink=|url=|title = 故小谷澄之十段の講道館葬|newspaper = [[柔道 (雑誌) |機関誌「柔道」]](1991年12月号)、4-9頁|publisher = 財団法人[[講道館]]|date = 1991-12-01|accessdate=}}</ref>。[[小学校]]時代は[[相撲]]が好きで、体は大きくはなかったものの20人以上の級友達を投げたり押し出したりして負かしていた<ref name="機関誌196704">{{Cite news|author = 小谷澄之|authorlink=|url=|title = 汗のあと、涙のあと -修業時代の想い出-|newspaper = [[柔道 (雑誌) |機関誌「柔道」]](1967年4月号)、15-18頁|publisher = 財団法人[[講道館]]|date = 1967-04-01|accessdate=}}</ref>。14歳で[[兵庫師範学校|兵庫県御影師範学校]]に入学して初めて柔道衣を着用、この時に[[柔道]]の先生に褒められた一言が一生涯の柔道の縁となったという<ref name="機関誌198406">{{Cite news|author = 小谷澄之|authorlink=|url=|title = 講道館百周年記念昇段者及び新十段・九段のことば|newspaper = [[柔道 (雑誌) |機関誌「柔道」]](1984年6月号)、42頁|publisher = 財団法人[[講道館]]|date = 1984-06-01|accessdate=}}</ref>。竹内流の[[柔術|柔術家]]で[[大日本武徳会]]教士でもあった藤田軍蔵の薫陶を受けたこの頃の事を小谷は<ref name="柔道100人">{{Cite news|author = 工藤雷介・横尾一彦|authorlink=|url=|title = 背負い投げに名刀の冴えがあった -小谷澄之10段- |newspaper = [[週刊ゴング|ゴング]](9月号増刊)、62頁|publisher = [[日本スポーツ出版社]]|date = 1984-09-20|accessdate=}}</ref><ref name="近代柔道198011">{{Cite news|author = くろだたけし|authorlink=|url=|title = 名選手ものがたり13 -9段小谷澄之の巻-|newspaper = [[近代柔道]](1980年11月号)、57頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1980-11-20|accessdate=}}</ref>、「全国大会前の1日3回に亘る練習はとても辛かった」としつつ、「一学期の[[定期考査|試験]]と重なり練習をサボると上級生に[[平手打ち|ビンタ]]を見舞われるが、幸い自分は柔道が好きで、辛かったがサボらなかった。勿論ビンタも来なかった」と述懐している<ref name="機関誌196704"/>。
 
[[File:Mikage Normal School Judo Club.jpg|left|180px|thumb|御影師範学校に優勝の栄誉を持ち帰った小谷(中央)ら]]
[[1932年]]の第10回[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]大会にレスリング(ミドル級)の代表選手として出場し、入賞を果たす。戦後、[[法務省]]矯正局教官、[[東海大学]]教授などで柔道指導をする。[[1942年]]9段に昇段し、[[1984年]][[4月27日]]の講道館百周年記念式において事実上の柔道最高段位である10段に昇段した。
また、当時は主に[[秋]]に近隣の各[[旧制中学校|中等学校]]で柔道大会が開催されていて小谷達の所へも招待状が来ており、大会への出場申込をすると[[トーナメント方式|トーナメント]]の組み合わせが印字された簡単なプログラムが送られてきて、そこに自分の[[名前]]が印刷されてあるのが嬉しかったという<ref name="機関誌196704"/>。[[1921年]]11月付で[[講道館]]に入門、[[1922年|翌22年]]1月には初段を取得し[[黒帯]]を許された<ref name="柔道名鑑"/>。後に[[寝技|寝て]]良し立って良しの“'''業師'''”と呼ばれる小谷の<ref name="柔道100人"/>、柔道家としての第一歩であった。
 
1922年[[夏]]に[[大日本武徳会]]主催で開催された第3回全国中等学校大会の前には、学期末試験の[[学習|勉強]]もそこそこに登校前・[[休み時間#昼休み|昼休み]]・[[休み時間#放課後|放課後]]をひたすら柔道の稽古に打ち込み、正課で[[水泳]]をやっていた関係で[[背中]]の皮がむけ、更にそこに柔道衣がこすれて激痛を伴ったが、それをも堪えて飯よりも好きな柔道の稽古に励んた部員仲間の事を小谷は晩年に「最も懐かしい友人達」と回顧している<ref name="機関誌196704"/>。
肝心の大会は中学校・商業学校・農学校・師範学校が一堂に会し、両校5名ずつの点取り方式のトーナメント戦を2日間で8回戦まで戦う大掛かりなもので、小谷らの兵庫御影師範学校が辛い練習の甲斐もあって優勝する事ができた<ref name="機関誌199112"/><ref name="機関誌196704"/>。第1回大会の[[福岡県]]・福岡県立中学修猷館(現・[[福岡県立修猷館高等学校|県立修猷館高校]])、第2大会の[[富山県]]・富山県中学校(現・[[富山県立富山高等学校|県立富山高校]])に次ぐ大会史上3番目の優勝校となり、真紅の大優勝旗を手にした時は感無量の思いであったとの事<ref name="機関誌196704"/>。
同年[[秋]]にも[[近畿地方|近畿地区]]の[[大学]]や[[専門学校]]の主催で中等学校の柔道大会が多く開催され、沢山の優勝旗を学校の[[講堂]]に飾る事ができたという<ref name="機関誌196704"/>。この間、10月には講道館の2段位となった<ref name="柔道名鑑"/>。
 
=== 東京高等師範時代 ===
[[File:Kano Jigoro, director of the Tokyo Higher Normal School.jpg|right|170px|thumb|東京高等師範学校時代の校長は嘉納講道館長だったが、実際に指導を受ける事は無かった]]
[[1923年]]3月に[[兵庫師範学校|兵庫御影師範学校]]を卒業後、20歳で[[上京]]し[[東京高等師範学校]]に入学すると<ref name="大日本雄弁会講談社"/>、[[永岡秀一]]・[[桜庭武]]・[[橋本正次郎]]ら[[講道館]]の重鎮の元で<ref name="柔道名鑑">{{Cite news|author = 工藤雷介|authorlink=|url=|title = 九段 小谷澄之|newspaper = 柔道名鑑、7-8頁|publisher = 柔道名鑑刊行会|date = 1965-12-01|accessdate=}}</ref>、それ迄の試合本位の練習方法ではなく正しい技の指導を受ける事に<ref name="機関誌196704"/>。小谷曰く「最初のうちは随分苦しかった」との事だが、一方で学校の稽古の無い日や[[日曜日]]には下富坂の講道館総本山へ出稽古に通い、他大学の[[学生]]との練習を楽しんでいたという<ref name="機関誌196704"/>。
講道館では指導員の[[中野正三]]に面白いように投げられたが、投げられまいと無理な踏ん張りや防御姿勢を取るような事はせず、2,30回も叩き付けられて[[礼]]をした後は這って[[更衣室]]に戻る事もあった<ref name="機関誌196704"/>。このような稽古が功を奏して自然と体捌きが体得され、当初は頭で考えながら掛けていた技も、無意識の内に繰り出せるようになっていったという<ref name="機関誌196704"/>。全盛時で[[身長]]162cm・[[体重]]69kgという小柄な体躯の小谷だったが<ref name="柔道名鑑"/>、こうして磨かれた[[背負投]]を生涯の得意技として体得し体格で劣る[[ハンデキャップ]]を埋め、柔道評論家のくろだたけしはその様を“ズバリ切って落とす[[刀|名刀]]の冴え”と絶賛している<ref name="近代柔道198011"/>。
 
[[1926年]]の[[明治神宮競技大会柔道競技|明治神宮大会]](青年組4段の部)に出場した時、試合前の待合所ではソワソワして用を足したり寝転んでみたりと、自身の[[緊張]]を自認しつつ、事前に作戦や相手の得意技を考える事等はしなかった<ref name="機関誌196704"/>。一度試合場に上がってしまえば逆に落ち着き、雑念も一掃されて、組んだ時の手の感触を以て自然に技を掛ける事ができたという<ref name="機関誌196704"/>。結果、予選リーグで[[香川県|香川]]の村井真一と[[静岡県|静岡]]の瀬谷浩を破って[[福岡県|福岡]]の豪勇・[[陸奥錦建市|須藤金作]]と引き分け、同点決勝で再試合となった須藤を鮮やかな[[内股]]で一閃、決勝戦では東京学生柔道界ナンバーワンと云われた[[立教大学]]の山本武四郎に背負投で[[畳]]を背負わせて見事優勝を果たしている<ref name="機関誌199112"/><ref name="近代柔道198011"/>。
 
なお、当時の東京高等師範学校長は[[嘉納治五郎]]で、晩年に「小谷は能く自分の理想とする柔道を習得した」と満足気に語って[[海外#日本|海外]]へ柔道の視察・指導に赴く際は現地で[[デモンストレーション]]を行う為に随行したりもしている(後述)が<ref name="機関誌199112"/>、学生時代には嘉納と直接話をする機会は無く、講道館の紅白試合等で遠くから嘉納の顔を謁見する程度だった<ref name="機関誌201201">{{Cite news|author = 本橋端奈子|authorlink=|url=|title = 講道館柔道十段物語 第12回 -“柔道一路”背負投の名人 小谷澄之-|newspaper = [[柔道 (雑誌) |機関誌「柔道」]](2012年1月号)、5-13頁|publisher = 財団法人[[講道館]]|date = 2012-01-01|accessdate=}}</ref>。
卒業を間近に控えた[[1927年]]になって小谷とその同級生3,4人とで嘉納宅を訪ねた際、[[和服]]姿の嘉納はこの教え子らを快く迎え入れて暫く談笑した後に[[筆]]を取り、普段は書かない“丹心照萬古”等の[[揮毫]]を書いて小谷らに渡してくれた事が印象に残ったという<ref name="機関誌201201"/>。なお、この言葉の意味は“[[嘘]]・偽りなく真心より生じる行いはいつの世までも[[サンプル|手本]]であり続ける”で、嘉納の書句ではあまり見られず数点が現存するのみである<ref name="機関誌201201"/>。
 
=== 熊本・福岡対抗試合での活躍 ===
[[File:Fifth Higher School, Japan.jpg|left|240px|thumb|1927年より奉職した旧制第五高等学校]]
[[1927年]]3月に[[東京高等師範学校]]を卒業すると、[[熊本県]]の[[第五高等学校 (旧制)|旧制第五高等学校]](現・[[熊本大学]])に[[助教授]]として着任する傍ら<ref name="大日本雄弁会講談社"/>、[[熊本医科大学 (旧制)|旧制熊本医大]]予科(現・熊本大学[[医学部]])も兼任で[[柔道]]の指導に当たった。小谷の回顧録に拠れば、熊本時代は[[寝技]]の練習ばかりで、大柄な者を相手にして寝技をやっていると大抵2,30分で[[腕]]がカチカチに硬くなり、ここからが本当の練習だと戒めて一層[[汗]]を流したという<ref name="機関誌196704"/>。汗が出ている時はまだ調子が良い内で、2時間以上も続けていると汗が出なくなる代わりに[[口]]の周りに[[塩]]を吹き、この時が練習を終えるタイミングだったという<ref name="機関誌196704"/>。一方、[[大日本武徳会]]熊本支部や[[中学校]]に出稽古に赴くと、乱取で小谷が[[小外刈]]や[[払腰]]、[[体落]]、[[背負投]]等の得意とする技を掛ければ<ref name="柔道名鑑"/>、必ず相手が転んでいる程に圧倒的な強さを誇った<ref name="機関誌196704"/>。
 
同年11月に開催された熊本県と[[福岡県]]との対抗試合(両軍20名ずつの勝ち抜き試合)に講道館5段となったばかりの小谷は熊本方で出場する事が決まると<ref name="柔道名鑑"/>、小谷はここでいきなり大将の重責を任される事となり、熊本にとっては第1回大会・第2回大会で熊本の大将を務めた[[宇土虎雄]]5段を副将に据えて絶対必勝の体制で臨む事となった<ref name="近代柔道198011"/>{{Refnest|group="注釈"|第1回大会・第2大会とも[[熊本県|熊本]]は[[福岡県|福岡]]に連敗しており、旧藩時代より[[柔術]]が盛んで[[明治|明治時代]]には肥後7流を輩出するなど“柔どころ”を自認する熊本にとっては、その面目を保つためにも勝利が至上命題であった<ref name="近代柔道198011"/>。これに先立ち[[旧武徳殿|京都武徳殿]]で行われた熊本選手団の強化合宿には、県民から多くの激励の[[手紙]]のほか、体力を付けるようにと[[酒]]や[[醤油]]、生きた状態の[[鳥]]や[[牛]]までも送られてきたという<ref name="機関誌201201"/>。}}。試合は前半で福岡が有利に進めたものの、熊本の[[牛島辰熊]]4段が4人を抜いて挽回し、後半では再び福岡が寄り戻して福岡側に3人を残し小谷に出番が回ってきた。
 
[[File:Fumio Nishi 2.jpg|right|160px|thumb|小谷と名勝負を演じた福岡の西]]
小谷はまず福岡方三将で先の[[明治神宮競技大会柔道競技|明治神宮大会]]の雪辱も程々に強(したた)かに引き分けを狙う[[陸奥錦建市|須藤金作]]5段と相見えた<ref name="機関誌199112"/>。[[体重]]70kg程度の小谷は30kg以上もの体重差を跳ね除けて須藤に[[一本背負投]]を2発見舞うが、いずれも勢いがあり過ぎたため須藤の体(たい)は一回転してしまい[[畳]]に[[足]]で着地してポイントにはならず<ref name="機関誌201201"/>。それでも試合時間24分、最後は背負投に仕留めた<ref name="近代柔道198011"/>。続いて、同じく体重100kg以上の副将・森崎一郎5段との熱戦を、今度は試合時間18分で[[払腰]]に降して試合の形勢を5分に戻し熊本陣営を狂喜させた<ref name="柔道100人"/><ref name="近代柔道198011"/>。大将決戦となった[[西文雄]]5段との試合は、両者攻防の末に試合時間30分のうち20分以上が過ぎた頃、主審の[[永岡秀一]]の「暫くで引き分け」の掛け声に焦りを覆えた小谷が場外間際で足払を仕掛けると<ref name="機関誌196704"/>、西は[[名人]]芸とも言える[[燕返]]に応じこれが見事に決まって福岡側に軍配が上がった<ref name="近代柔道198011"/>。
 
「(3人合わせて)1時間近く試合をしていたと思うが、まだまだ試合のできる状態で負けたのは残念であった」「腕等も硬くったわけではなく、自分の不注意というか、[[精神]]的な面で欠けていたから負けた」と小谷<ref name="機関誌196704"/>。1万5千人の[[観客|観衆]]や臨席していた[[嘉納治五郎]]の前で熊本の逆転優勝を演出する事は出来なかったが<ref name="機関誌201201"/>、大会での大活躍と柔道史上に残る西との名試合で観戦した人達に強烈な印象を残し、小谷は柔道界において一躍その名を知られる所となった<ref name="機関誌199112"/>{{Refnest|group="注釈"|ただし小谷は後に、「当時[[熊本県|熊本]]の人達には必要以上・実力以上に持て囃(はや)されたが、自分は面白くなかった」「[[柔道]]が多少強くても、自分は[[社会人]]1年生なんだと、淋しい時すらあった」と語っている<ref name="機関誌196704"/>。}}。西も後に、試合を終始優位に進めた小谷に対して「小谷さんこそ、当代並ぶ者の無き名人」「試合内容は全く私の負けだった」と賛辞を送っている<ref name="機関誌201201"/>。なお、熊本県・福岡県対抗大会は両県民が互いにエスカレートし過ぎて険悪な空気が漂い、最後には両県[[都道府県知事|知事]]が仲裁に乗り出して、この第3回大会を以て開催中止となっている<ref name="近代柔道198011"/>。
 
=== レスリングで五輪出場 ===
[[1929年]]に小谷は[[満州]]に渡って[[南満州鉄道株式会社]]に入社し、[[満州国・関東州の高等教育機関#大連|南満洲工業専門学校]]にて[[柔道]][[師範]]として指導も行った<ref name="大日本雄弁会講談社"/>。また同年5月の[[昭和天覧試合#御大礼記念天覧武道大会|御大礼記念天覧武道大会]]には、当時の[[柔道家]]として最高の栄誉である指定選士32人の1人にも選出されている<ref name="大日本雄弁会講談社"/>。同大会では予選リーグで[[慶應義塾]]出の浅見浅一5段を相手に時間一杯を戦って優勢勝、末次哲朗7段には開始45秒で[[背負投]]で一本勝するも、[[三船久蔵|三船]]門下の逸材・[[佐藤金之助]]6段との激闘では16分11秒に判定を失い惜しくも決勝トーナメント進出はならなかった<ref name="近代柔道198011"/>。
 
程なく[[岡部平太]]の口利きで満州・[[福岡県|福岡]]の対抗試合が開催される事となると、[[1930年]]5月の第1回大会に小谷は満州軍の副将として出場、藤野善次郎5段を[[上四方固]]に抑えて抜き、巨漢・島井安之助5段とは引き分け、[[1931年]]5月の第2回大会には同じく副将として出場した[[久永貞男]]5段と引き分けた<ref name="柔道100人"/><ref name="近代柔道198011"/>。その後も[[1934年]]7月の満州と東京学生連合との第6回対抗試合や満州・[[大阪府|大阪]]、満州・[[長野県|長野]]といった対抗試合に大将として出場するなど、満州チームを統率する中心選手として永く活躍した<ref name="機関誌199112"/><ref name="近代柔道198011"/><ref name="柔道名鑑"/>。
この間、[[社会人]]としては[[満州国]]政府の招聘により体育課長(武道会柔道主任教授)の任を担ったほか、南満州鉄道の参事・新京生計部長・同総務部長といった要職も歴任している<ref name="柔道100人"/>。同時に、「[[柔道]]の先生が[[教養]]が無いとは思われたくない」「柔道も強いが、人間的にも立派な人になりたい」との思いから、[[大連]]では南山麓の妙心寺に何年も通い続け、静かな部屋で[[坐禅]]を組んでいたという<ref name="機関誌196704"/>{{Refnest|group="注釈"|小谷は[[仏教]]徒ではあるが、特に[[信仰]]があるわけでは無い。よく判らないまま[[寺院]]に通い、静かな部屋で座っている時が気持ち良いから通ったという程度であった<ref name="機関誌196704"/>。}}。
 
[[File:Cérémonie d'ouverture des Xe JO, à Los Angeles.jpg|left|250px|thumb|レスリング競技に出場したロサンゼルス五輪]]
[[1932年]]、所属する南満州鉄道株式会社から[[ヨーロッパ|欧州]]・[[アメリカ合衆国|米国]]出張を命じられ、これを巡回する<ref name="機関誌201201"/>。[[ロサンゼルス]]に滞在中の5月、柔道場に通う[[レスリング]]選手とレスリングルールで試合をしないかとの打診があり、[[東京高等師範学校]]時代に少しばかりレスリングの経験があった小谷はこれを快諾<ref name="機関誌201201"/>。小谷はこの試合を僅か5分足らずで[[ピンフォール|フォール]]勝に収めて周囲を驚かせた<ref name="機関誌201201"/>。同行していた[[講道館]]の吉田四一4段と共に、同じロサンゼルスで同年8月に開催が予定されていた[[1932年ロサンゼルスオリンピック|五輪大会]]の[[1932年ロサンゼルスオリンピックのレスリング競技|レスリング競技]]に日本代表として出場させよという機運が一気に高まり、後援会まで立ち上がる始末だった<ref name="機関誌201201"/>。
以後、小谷は五輪大会まで昼間はレスリング、夜間は柔道の稽古という生活を続け<ref name="機関誌201201"/>、大会本番には他の選手との兼ね合いもあって本来の[[体重]]に見合うライト級ではなく、2階級上のミドル級の選手としてフリースタイルクラスに出場する事となった<ref name="機関誌199112"/>。
 
8月の五輪本大会では{{仮リンク|河野芳男|en|Yoshio Kono}}や{{仮リンク|鈴木英太郎|en|Eitaro Suzuki}}ら他階級の日本選手達の過半が2回戦で敗れる厳しい状況下にあって小谷は3回戦まで勝ち上がり、この階級の金メダリストとなる[[スウェーデン]]の{{仮リンク|イバール・ヨハンソン|en|Ivar Johansson (wrestler)}}にフォール負を喫したものの5位入賞を果たす<ref name="機関誌201201"/>。なお、自身もフリースタイルのフェザー級に出場し、後に“日本レスリング界の父”とも呼ばれる[[八田一朗]]は後日、「小谷さんがあの時、本来の階級のライト級に出場していれば、[[日本レスリング協会]]は創立早々[[金メダル]]を取っていた。実に残念な事をした。」と口惜しさを滲ませていたと云う<ref name="機関誌199112"/>。
 
=== 後進の指導に当たる ===
[[File:Jigoro Kano and Sumiyuki Kotani.jpg|right|240px|thumb|ロンドンにて柔道のデモンストレーションを行う嘉納と小谷(右)]]
[[1932年ロサンゼルスオリンピック|五輪大会]]後は、[[国際オリンピック委員会|IOC]]委員としてロサンゼルス五輪に臨席していた[[嘉納治五郎]]と共に[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]での柔道大会に参加し、小谷はその場で[[ロサンゼルス]]在住の有段者を相手に15人掛を披露している<ref name="機関誌201201"/>。
[[1933年|翌33年]]、[[1940年]]の五輪大会を[[東京]]に誘致すべく嘉納が[[ウィーン]]で開催のIOC会合に赴く際には、嘉納の娘婿である[[鷹崎正見]]6段と共にこの随行役として抜擢され、5月から12月まで半年以上の長期に渡る[[ヨーロッパ|欧州]]各地での柔道巡回指導の一翼を担った<ref name="柔道100人"/><ref name="機関誌201201"/>。[[満州]]から遠路はるばる[[シベリア鉄道]]で渡欧して始まったこの行程では<ref name="柔道100人"/>、嘉納と寝食を共にしながら現地での指導や[[デモンストレーション]]等を行い、小谷の回顧に拠れば、現地の巨人連中を指導したり時には真剣試合をしたりしたが{{Refnest|group="注釈"|現地で飛び入り挑戦をしてくる者は、巨体の[[鷹崎正見]]ではなく、決まって小柄な小谷を相手に指名して挑んできた<ref name="機関誌201201"/>。どちらかが[[失神]]をするか降参の意思表示をするまで試合を続ける真剣勝負であったが、小谷はこれを片っ端から打ち負かしている<ref name="機関誌201201"/>。また、[[ロンドン]]で柔道の有段者10名を相手に掛け試合を演じ、様々な[[投げ技|技]]で瞬く間にこれを片付けた時には、試合後に[[イギリス|英国]]柔道の祖である[[小泉軍治]]が駆け寄ってきて「この巨人達を10分足らずで、どうして投げられるのかちょっと考えられないが、事実あなた(小谷)は目の前で実行された」「素晴らしい[[柔道]]の普及になりました」と大喜びだったとの事<ref name="機関誌201201"/>。}}、相手をいくら投げても一度も嘉納から褒められた事は無かったという<ref name="機関誌198406"/>{{Refnest|group="注釈"|それどころか、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]市内を散歩中に[[嘉納治五郎|嘉納]]から、「君は無駄足をする。三歩で良い所を五歩も六歩も歩く。それは良くない」と注意された事が印象に残っていた<ref name="機関誌198406"/>。}}。それでもこの様子は各地の[[新聞]]に大々的に取り上げられ、「[[柔道|JUDO]]」の名は急速に広まっていった<ref name="機関誌201201"/>。その後、[[1937年]]12月には[[講道館]]より7段位を拝受<ref name="柔道名鑑"/>。[[1939年]]には5月から12月まで、[[南アメリカ|南米]]各国を指導して周った<ref name="機関誌199112"/>。
 
[[戦後#日本での「戦後」の位置づけ|戦後]]、[[1946年]]12月に満州から引き揚げ、[[大阪府|大阪]]に大阪柔道クラブを創設して約250人の後進を指導した<ref name="機関誌201201"/>。
[[1949年]]6月より講道館に奉職して以後は、同館渉外部(現・国際部)参与や審議会審議員、道場幹事長、同指導本部長といった要職を担い、国内外を問わず斯道の普及・振興に尽力した<ref name="柔道100人"/><ref name="機関誌201201"/>。小谷の指導を仰いだ細川熊蔵9段に拠れば、小谷は同郷や同窓等に拘る事も無く、柔道を愛する者であれば等しく誠意を傾けて接していたという<ref name="機関誌199112"/>。以後、その人格と技量を買われて柔道指導のために歴訪した国は前述の欧州各国のほか、[[アメリカ合衆国|米国]]や[[フィリピン]]、[[ミャンマー|ビルマ]]、[[カナダ]]等、実に十数各国にも及んだ<ref name="柔道100人"/>。特に[[1953年]]から[[1957年]]迄の5年間は、毎年渡米して2カ月間[[アメリカ空軍|米国空軍]]を指導する程の熱の入れ様だった<ref name="機関誌199112"/>。曰く、「各国の[[柔道家|柔道人]]と肌を触れ合い、共に[[汗]]を流していると、これほど楽しい事は無い」「柔道衣姿が、[[親族|肉親]]同様の親近感を思わす」との事<ref name="機関誌196704"/>。
 
高段者の中には年を重ねてからというもの柔道衣を着用しなくなる者も少なくない中で、小谷は晩年まで稽古衣に袖を通して講道館の大道場に立ち続け、実際に若者らに[[胸]]を貸して[[汗]]を流していた点は特筆される<ref name="機関誌199112"/><ref name="近代柔道198011"/>。
[[東京都]][[品川区]][[南大井]]に居を構え<ref name="柔道名鑑"/>、[[1953年]]から[[法務省]]矯正局教官や[[日本スポーツ協会|日本体育協会]]参与に就任、[[1968年]]には[[東海大学]][[教授]]を拝命して、そちらでも門生の柔道指導に当たった<ref name="機関誌199112"/>。
 
=== 講道館10段位を允許 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:left; margin-right:1.5em"
|+'''講道館での昇段歴'''
!style="width: 3em;" |段位
!style="width: 9em;" |年月日
!style="width: 3em;" |年齢
|-
!入門
|[[1921年]][[11月23日]]||18歳
|-
!初段
|[[1922年]][[1月8日]]||18歳
|-
!2段
|[[1922年]][[10月1日]]||19歳
|-
!3段
|[[1924年]][[7月19日]]||20歳
|-
!4段
|[[1924年]][[12月23日]]||21歳
|-
!5段
|[[1927年]][[10月31日]]||24歳
|-
!6段
|[[1932年]][[7月20日]]||28歳
|-
!7段
|[[1937年]][[12月22日]]||34歳
|-
!8段
|[[1945年]][[5月4日]]||41歳
|-
!9段
|[[1962年]][[11月17日]]||59歳
|-
!10段
|[[1984年]][[4月27日]]||80歳
|}
[[講道館]]では道場最高顧問や評議員、[[全日本柔道連盟]]においては[[1950年]]に幹事として着任してから永く柔道界の運営に携わり、[[1988年]]の法人化に際し同連盟を退任する際には副会長となっていた<ref name="機関誌199112"/>。[[全国高等学校体育連盟]]に柔道部が創設された時には、「全日本柔道連盟は全国高等学校体育連盟に立ち入るような事はしない。頼まれた事には協力する」と語り、その後40年以上一貫してこれを有言実行したという<ref name="機関誌199112"/>。
一方でこの頃、本来の[[柔道]]が点取り主義の勝ち負けに拘る競技柔道に傾倒していった当時の状況を心から慨嘆し、正しい柔道への原点回帰を願う小谷がその想いを周囲の人間に語る時だけは、普段温厚で物静かなその表情を紅潮させていた<ref name="機関誌199112"/>。
 
[[1962年]]11月に9段に昇段して赤帯を許され<ref name="柔道名鑑"/>、[[1972年]]11月には講道館創立90周年功労賞を受賞<ref name="機関誌199112"/>。[[1974年]][[秋]]の[[叙勲]]では[[瑞宝章|勲四等瑞宝章瑞宝章]]も授与されている<ref name="機関誌199112"/>。[[1984年]][[4月27日]]の講道館百周年記念式において事実上の柔道最高段位である10段位を允許<ref name="機関誌199112"/>。空位となっていた10段位が埋まるのは、[[栗原民雄]]が[[1979年]]10月に没して以来約4年半振り、実質的な存命者での10段位{{Refnest|group="注釈"|[[講道館]]10段位は9段の者が死亡後、[[命日]]ないしその前日に遡って授与される事も多く、小谷が10段位を受ける直前の4名([[岡野好太郎]]、[[正力松太郎]]、[[中野正三]]、[[栗原民雄]])はいずれも没後の追贈であった。ちなみに小谷に続いたのは3名同時昇段となった[[安部一郎]]、[[大沢慶己]]、[[醍醐敏郎]]の各氏で、いずれも存命中に10段位を受けている。}}は[[三船久蔵]]が[[1965年]]1月に没して以来約20年振りの事であった。昇段に際し小谷は、「図らずも10段を授与されたが、([[嘉納治五郎|嘉納]])師範は地下でどう思っておられるか」と謙遜すると同時に、「先生!努力精進だけはする覚悟ですから、宜しくご指導の程お願い致します」と続けている<ref name="機関誌198406"/>。
 
10段になってもなお柔道衣を着て講道館道場で毎日[[汗]]を流す傍ら<ref name="近代柔道198011"/>、自身の生涯を描いた自伝『柔道一路 -海外普及につくした五十年-』を出版する等した<ref name="機関誌201201"/>。
[[1987年]]12月には自身や[[夫人]]の健康を考えて[[故郷|郷里]]・[[兵庫県]]の[[西宮市]]に転居<ref name="機関誌199112"/>。転居2日前に突然[[嘉納行光]]講道館長の元を訪れ「長い間お世話になったけれど、明後日転居します」と述べ、[[歓送迎会|送別の宴]]を開催する暇も無く慌ただしく[[東京]]を去っていったが、以後は晴耕雨読で悠々自適の生活を送っていたという<ref name="機関誌199112"/>。
[[1991年]]の[[夏]]頃より体調を崩し、嘉納館長が見舞いに訪れた際には[[会話]]する事ができなかった<ref name="機関誌199112"/>。同年10月、[[肺炎]]のため死去<ref name="機関誌199112"/>。[[享年]]89。
小谷の柔道界に対する多大な貢献から講道館葬を以て送られる事となり、[[11月15日]]に講道館大道場で厳かに執り行われた<ref name="機関誌199112"/>。会場には各都道府県柔道連盟会長および9段各位、[[原文兵衛]][[日本の国会議員|参議院議員]]らが駆け付けた<ref name="機関誌199112"/>。嘉納行光館長のほか、全日本柔道連盟を代表して南嶋清久9段、全講道館員を代表して細川熊蔵9段が弔辞を述べ、[[塩川正十郎]][[自治大臣|自治相]]の[[電報|弔電]]が読み上げられている<ref name="機関誌199112"/>。
[[1992年|翌92年]]、講道館殿堂入り<ref name="柔道大事典">{{Cite news|author = 山縣淳男|authorlink=|url=|title = 小谷澄之 -こたにすみゆき|newspaper = 柔道大事典、176頁|publisher = アテネ書房|date = 1999-11-21|accessdate=}}</ref>。
 
== 著書 ==
*「柔道一路の形」(ベースボールマガジン社共著:不昧堂[[1954年]]-[[1955年]]刊
*「図解コーチ柔道五教」(成美堂出版)[[1967年]]刊
*「柔道の形五教」(共著:不昧[[成美出版]][[1974年]]刊
*「柔道一路」([[ベースボール・マガジン社]])[[1984年]]9月刊 ISBN 4-583-02449-5
*「図解コーチ柔道」(成美堂出版)
*「嘉納治五郎大系」(本の友社)[[1987年]]10月-[[1988年]]5月刊
など。
など
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sumiyuki Kotani}}
*[[柔道家一覧]]
*[[男子レスリング選手一覧]]
*[[オリンピックのレスリング競技・日本人メダリスト一覧]]
*[[兵庫県出身の人物一覧]]
*[[東京教育大学の人物一覧]]
 
{{十段}}
{{Normdaten|TYP=p|VIAF=40796986|NDL=00035934|CINII=DA02384989}}
{{DEFAULTSORT:こたに すみゆき}}
{{Sportspeople-stub}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:昭和天覧試合出場者]]
[[Category:講道館柔道殿堂]]
[[Category:オリンピックレスリング日本代表選手]]
[[Category:南満州鉄道の人物]]
[[Category:勲四等瑞宝章受章者]]
[[Category:1903年生]]
[[Category:1991年没]]